「テレメンタリー2023」というドキュメンタリー番組を見ていた。「突然、手が動かなくなった葉月ちゃん」が、手の代わりに口に筆を咥えて絵を描く。それから記憶が蘇った。大石順教尼だ。明治38(1905)年に起きた大事件、堀江六人斬り事件だ。5人が斬殺され、1人が重傷で生き残った。それが妻吉こと大石よねだ。この事件を調べてみよう。大石よねの人となり、殺害現場はどこだ、殺害現場の堀江遊郭(堀江新地)は今どのようになっているか。地域に歴史が共有されているだろうか。それらを追っていきたい。
まず、どこから調査を始めようか。花見をしようと堀江公園に行くことにした。花見客や保育園児が集まっていた。見事に咲いている。都会の中のオアシス。公園の隣に「堀江会館」という地域の町会会館があった。5人くらいの女性方が集まって会話を楽しんでいた。堀江新地について聞く。大石順教尼の名が女性方から出た。昔はお茶屋が集まっていて、三味線の音も聞こえてきたりした。
↑堀江公園
↑同上
↑同上
↑同上
↑同上
↑同上
↑子どもたちが遊ぶ平和な公園だが、空襲被害があった
公園の一角に碑が立っている。「堀江川の跡」と書かれている。これだ。堀江川が東西に流れていたのだ。西横堀川から木津川を結んでいた堀川があったのだ。堀江川を挟んで、北側が北堀江、南側を南堀江と呼んでいた。
↑「堀江川の跡」碑
堀江はかつて、堀江遊郭で栄えた。昭和45年ぐらいまで三味の音が聞こえたりしたと地元で古くから住む方は記憶を語ってくれる。1945年3月の大阪大空襲で堀江地域は焼かれる。戦後、新住民や地元民が混住するが、今は若者の人気スポットになっている。地域の歴史を伝える営みが細々と続けられている。
↑西大橋交差点
↑同上
↑同上
↑堀江歩道橋が見える
↑地図
↑中川酒店
↑地図
↑栗本鉄工所(水道管のトップメーカー)
↑地図(堀江公園の北側の道が昔の堀江川であった)
↑現在の栗本鐡工所本社屋
昭和四十三年、栗本鐵工所社屋(木造二階建て)は、七階建てのビルに建て替えられる。そして、堀江演舞場跡で営業していた貸座敷・浜田屋から三味線の音も消えた。
↑旧堀江演舞場(今は立体駐車場)
演舞場の敷地総面積は四百七十五坪、建坪は本館百八十一坪。尾州産の檜で作られた豪家木造建築物であった。
↑堀江の古そうな家
↑堀江遊郭の雰囲気はまったくない
↑北堀江御池(みいけ)通り
↑大阪金物会館
↑堀江小学校(手前はあみだ池公園)
堀江小学校の西側に浄土宗の寺院、阿弥陀池和光寺がある。正門は東側に開いているが、南と西門から入るようになっている。今は静かで平和な空間だが、80年近く前は戦争の悲劇が起きていた。
↑あみだ池和光寺(浄土宗の尼寺)
↑和光寺の境内
↑同上
↑和光寺の手水
↑三匹のカエル
↑亀
↑三匹のカエルを背後から撮影
↑六十六部供養碑
↑地蔵尊(空襲の焦げ跡あり)
↑和光寺の来歴
↑放光閣が見える
↑和光寺の放光閣
↑日向ぼっこをする亀
↑碑文
「廃墟となり地上には、死屍累々としてその惨状名状すべからず。子は親を求め、親は子を探す姿、真にあわれにて目を覆うものあり。むなしく百五十有余体は遂に無縁となる。よって地元有志並びに警防団員の献身的な努力により、浪速の名刹和光寺にねんごろに之を葬る」とある。
↑和光寺・空襲被災者慰霊碑(昭和二十年三月十四日の第一次大阪大空襲で、堀江・西六地区の木造建築はすべて焼失、被害は甚大であった)
↑碑の背面
↑無縁墓
↑和光寺の西門
↑花まつりの予告
↑和光寺の南側の家
↑和光寺から西方を眺める
『全国女性街ガイド』(渡辺寛著、昭和30年)という本がある。そこに以下のような記述がある。
「義太夫を中心とした“木の花おどり”も今年三月から復活し、小じんまりとした親しみ深い花街で、芸者はここも百名程度。若柳系の松助という名妓がいる。新町も堀江も一座敷千五百円程度で、戦前の浪花四廓の掟も破られ、泊る妓が多くなり平均三千五百円。大阪の下町ツ子が多い。」芸者遊びを大人たちがしているのを見聞した方もいるだろう。そんな話も聞きたいものだ。
【参考文献】
『近代大阪と堀江・新町』(水知悠之介著、新風書房)