我が中学生のころ

 手元に『創立50周年記念誌 蒲生中のあゆみ』がある。

 記憶の彼方にあった我が人生が記録されていた。記念誌を頼りに、文章を綴っていきたい。

 

 大阪市立蒲生中学校は昭和22(1947)年4月に創立された。新制中学として大阪市立城東第二中学校の名称で出発した。学生帽に二本線が入っていた。住所(新住居表示)は大阪市城東区中央3丁目9-24である。旧住所は城東区関目1丁目1番地。

f:id:higachanntan:20230209223156j:image↑蒲生中学校(城東区総合庁舎から望む)
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 校歌の作曲は高木和夫、作詞は「野崎小唄」で有名な今中楓溪である。昭和26年1月に校歌が制定された。1番の歌詞をあげよう。

「生駒に躍る 朝日を浴びて

 天主のいらか 仰ぐとき

 希望は高く 湧き来る力

 栄えあれ栄えあれ 吾等の学舎

 光あれ光あれ 吾等の行き手」

 

 歴代校長の氏名と顔写真が載っているが、在学時の校長は第六代のタナカ先生だった。奈良県から通っていたと思う。奈良のお茶漬けの話をされたのを記憶する。昭和36(1961)年4月から昭和41(1966)年3月まで在任した。在任中に木造の北側校舎が全焼したのを覚えている。生徒主事のカワシマ先生が壇上から訓示をされたことがあった。内容は忘れた。

 第11代校長にフクイ先生の顔写真が載っている。淀川区の中学校校長として1年間接した。昭和48(1973)年に私はそこで教師の道を歩んだ。

 

 蒲生中学校に入学したのは、昭和37(1962)年4月だった。新入生は573名。前年の9月16日に第二室戸台風が大阪を襲った。1年の担任はワカヤマ先生だった。

 4月19日、映画鑑賞があった。学校から京橋アカデミー劇場まで歩いて行った。「キューポラのある街」で、吉永小百合のシュミーズ姿の白が印象的であった。

 社会科研究部に所属した。11月20日、法円坂の旧大阪市教員会館で第二ブロック社会科研究発表会に参加した。蒲生中のテーマは「アベノ上六ターミナルの発展」。最初が私であったが、内気だった私は上がってしまった。ヒラカワ先生やカゼ先生、旧姓イシズミ(タカオ)先生が指導された。イシズミ先生は昭和37年4月から39年3月まで在職された。

 2〜3年の担任はヤマモト先生だった。先生に社会と体育を教えていただいた。組合活動に熱心な先生と思う。タカオ先生に英語を教えていただいた。先生の思い出は、中学校三年生の時、文部省学力テストを始める前に「私は学力テストに反対だ」と言って、テスト用紙を配られたのだ。その時、社会に目を向けて生きることの大切さを知った。

 南にある蒲生公園で先生たちの学力テスト反対集会があった。女性の先生はマスクをして参加されていた。でも顔の見分けは付く。授業がないので、生徒たちは「がんばれ」と応援した。

 

 昭和38(1963)年は東京オリンピックの前年にあたる。

 5月18日から21日まで3泊4日の修学旅行があった。

 5月18日  大阪駅から「きぼう」号で品川駅まで乗る。東京駿河台ホテルに宿泊する。高速道路を観光バスで通過しながら、日本の将来は明るいと思われた。

 5月19日  羽田空港鎌倉大仏を見学。泊まりは箱根湯の花ホテル。硫黄の匂いがしていた。霧の中の有料道路を走っていった。

 5月20日  箱根十国峠から伊東の大室高原・伊豆サボテン公園、熱海見学。熱海駅から「きぼう」号

車中泊

 5月21日  大阪駅から学校に帰着。

 

 翌年の昭和39(1964)年10月10日から東京オリンピックが始まった。中学三年生になった。体育館にあるテレビ受像機を見せてくれと生徒の願いを受け入れて、体育館でクラス単位でオリンピック番組を見た。ワクワクしながら見たと思い出す。日本の魔女が活躍するバレーボール、三宅義信の重量挙げに声援を送った。

 

 受験日が近づくにつれて、11月の市学力テスト、1月の府研テスト、進指連の模擬テスト、中間テスト、期末テスト、五ツ木テスト(実力テスト)、校内実力テストなどで希望校が決まっていった。うちの家業は乾物を商っていた。商売人には学問がいらないと父の一言で、商業高校進学に内定した。しかし、心中には普通科の高校進学を望んでいた。

 

 2月の私立高校入試では、上六の仏教系高校の入試を受けた。合否は第二補欠だった。合格ではないが、第三補欠よりは有利と言われた。卒業式後、3月17日の公立高校の入試。大阪には雪が降って、市バスは運休した。市電は動いていた。午後から入試が始まるので、一旦帰宅して長靴を履いていった。南森町で乗り換えて、難波橋を渡った。高麗橋三越百貨店、野村證券ビル、生駒時計店などの名建築を市電の窓から眺めたものだ。9教科のテストを終えると、ラッシュアワーにぶつかった。ぎゅうぎゅう詰めの市電で窓ガラスが割れる事故が起きた。

 3月20日が公立高校合格発表日。名前が書かれているかとビクビクだった。あった。午後に保護者同伴で説明会に出席するように言われる。父母は商売があり、叔父が付き添ってくれた。緑橋から市電代行車(市バス)で高校の最寄りの停留所まで乗った。市電のレールが撤去されたばかりだったのだ。

 

 それから高校生活の三年間は始まった。