中島飛行機荻窪製作所

 「三鷹跨線橋」で私は下記のように述べた。

中島飛行機の工場が中央線沿線にあった。荻窪駅にあった荻窪製作所。三鷹駅の北にあった東京製作所(武蔵野製作所とも言う)。母は女子挺身隊員として、荻窪製作所に勤めていた。グラマン戦闘機が急降下して、機銃掃射をしてきたと母がかつて言った。茶畑の中に逃げ込んで、間一髪命が助かった。杉並区立図書館でそのことを話し、調べてもらった。荻窪製作所では空襲などはなかったらしい。荻窪製作所ではなく、武蔵野製作所か。武蔵野製作所では空襲があった。母の記憶違いなのか。」

 

 記憶違いではないと思われる。

 なぜか。「消えた年金記録」に中島飛行機荻窪製作所とゴム印が押されている。杉並区立郷土博物館によれば、荻窪製作所に米軍の空襲はなかったことになっている。日本側の資料が少ないので不明なことが多い。たぶん敗戦後に記録・資料を焼却処分したのではないかと推量する。アメリ国立公文書館に保管される米軍の空襲報告書に頼らざるを得ない。空襲報告書の日本語への翻訳を心待ちにしている。

 

 母の死後、年金相談センターに足を運んだ。国民年金だけと思っていた。しかし、厚生年金も支給されることになった。「消えた年金」記録が出てきたのだ。

f:id:higachanntan:20230911231159j:image消えた年金記録

 中島飛行機荻窪製作所に昭和19(1944)年6月1日から昭和20(1945)年8月26日まで働いていたことになる。資格喪失の原因が「廃止」となっている。女子勤労挺身隊員としてエンジン部品の生産をしていたらしい。中島飛行機東京工場は当初エンジン生産を中心にしてきた。武蔵野工場などの工場が増えて、エンジン生産をしなくなった。

 「女子勤労挺身隊」は昭和18(1943)年9月23日、25歳以下の女子を対象に設けられた制度である。

 

 「米国戦略爆撃調査団」の報告書では、昭和19(1944)年12月15日付けの飛行偵察隊の報告書では荻窪工場の被害状況を報告している。

 『新修 杉並区史』では、荻窪工場への直接の被害はないとしている。12月3日(日本時間)に高井戸第四国民学校全焼、西荻窪1丁目の一部焼失、天沼陸橋、中通町、清水町、上井草、今川町、和泉、神戸町井荻駅西方、西高井戸、下井草で被害があった。

 

 現在、青梅街道沿いの桃井原っぱ公園(杉並区桃井三丁目付近)には大正十四(1925)年から昭和二十(1945)年まで中島飛行機製作所の東京工場があった。

 

 「武蔵野ふるさと歴史館」(武蔵野市境5丁目15-5)で、空襲を受けた中島飛行機武蔵野工場の展覧会を見ることにした。

f:id:higachanntan:20230906192800j:image↑戦後、米軍の「グリーン・パーク」
f:id:higachanntan:20230906192813j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230906192715j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230906192753j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230906192726j:image↑米軍の航空写真
f:id:higachanntan:20230906192756j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230906192736j:image↑武蔵製作所への空襲直前
f:id:higachanntan:20230906192729j:image中島飛行機の進出前

f:id:higachanntan:20230906192803j:image↑1トン爆弾
f:id:higachanntan:20230906192739j:image↑軍需工場の進出と爆撃被害
f:id:higachanntan:20230906192719j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230906192742j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230906192807j:image↑私立中島武蔵第一青年学校
f:id:higachanntan:20230906192749j:image↑近代的な病院
f:id:higachanntan:20230906192722j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230906192746j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230906192810j:image武蔵野市の成立と戦後復興

 

 中島知久平が創業した中島飛行機は、大正六(1917)年に設立された飛行機製造会社だった。中島飛行機は工場拡張のため東京に進出し、最初の工場を井荻村上井草(現在の杉並区桃井)に置いた。交通の便がよい青梅街道沿いの土地を求めたのだ。

 大正十四(1925)年11月に中島飛行機製作所東京工場が完成した。エンジン生産が始められた。エンジンは戦闘機「零戦」「隼」に搭載された。

 東京工場(のち東京製作所)は昭和十五(1940)年までエンジン生産をしていた。武蔵野製作所が誕生してからエンジン部品の生産に変わる。昭和十八(1943)年、名称を荻窪工場に改名した。

 昭和十九(1944)年、中島飛行機軍需省航空兵器局の管轄下に入り、軍需会社の指定を受ける。昭和二十(1945)年4月から第一軍需工廠になる。

 昭和二十(1945)年8月15日の終戦の翌日、戦後処理として兵器生産の停止、生産設備使用の停止などが通達され、中島飛行機博物館30年の歴史を終了した。

 

 

【参考文献】

富士重工業三十年史』(富士重工業株式会社、昭和59年7月)

中島飛行機の研究』(高橋泰隆著、日本経済評論社、1988年5月)

『杉並区立郷土博物館研究紀要第28号』「NAKAJIMA  A/C OGIKUBO PlANT〜アメリカ軍が見た中島飛行機荻窪工場〜」(令和3年3月、大嶋小芳)

『TARGET  No.357〜攻撃目標となった町、武蔵野〜』(武蔵野市立武蔵野ふるさと歴史館、平成29年10月)