中浜下水処理場余話

 大阪市建設局中浜下水処理場に関する記述を『大阪市下水道事業誌(第二巻)』(平成元年3月、大阪市下水道局)から見てみよう。

f:id:higachanntan:20230725222935j:image大阪市建設局中浜下水処理場(東部側)
f:id:higachanntan:20230725222926j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230725222930j:image↑同上

 中浜下水処理場の用地は、戦前の昭和13(1938)年に買っていたと書かれている。135戸の家屋移転をして用地取得をした。寝屋川の改修計画ができた時に、東大阪の水害対策上、新川(第二寝屋川を指す)を掘らざるを得なくなる。他に場所がないので、135戸の家屋と土地を買収することになった。

 処理場敷地の南側と西側に、かなり密集して家屋が建っている。将来そこも買収することになっていた。しかし、西側の、もと城東練兵場の土地約9000坪の買収の話がまとまり、西側に拡張する。

 (西側の)あの辺り一帯は広い野原で、戦後は米をつくっていたと書かれている。

f:id:higachanntan:20230725223122j:image↑中浜下水処理場の写真(大阪クリアウオーター株式会社の提供)
f:id:higachanntan:20230725223126j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230725223118j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230725223114j:image↑同上
f:id:higachanntan:20230725223110j:image↑同上

 中浜下水処理場は東部と西部から成っている。「西部は、戦時の空襲で壊滅した大阪砲兵工廠跡地で、多数の不発弾があり、難工事」だったと書かれている。

f:id:higachanntan:20230725230225j:image↑石碑
f:id:higachanntan:20230725230229j:image↑同上

 中浜下水処理場は東池(1960年通水)と西池(1963年通水)から成っている。東池・西池で処理した下水は主に第二寝屋川へ放流されている。東池の下水処理水の一部は、東横堀川大阪城公園外濠へ送水されている(パンフレット『中浜下水処理場大阪市建設局東部方面管理事務所発行)