ラジオを聴きながら仕事をするのが習慣になっている。「ながら族」と言われた世代の一人だ。
団塊の世代の私も社会問題を発生させながら高齢者になった。高齢者にやさしいのがラジオだ。とりわけ毎日放送の「ありがとう浜村淳です」を愛聴している。12月17日、西川きよし(土曜日に出演)の発言に関心を抱いた。彼が大阪市港区に住んでいたのは知っていた。桂三枝(当代の桂文枝)も大阪市立市岡中学校の卒業生だ。下町の港区は魅力的なまちである。
「大阪市港区南市岡町2丁目3番地」が港区に住んでいた時の住所だと番組の中で西川が語った。臨港線(廃線)が走っていたとも。
今の港区のどこに住んでいたのか、見てみたくなった。その前の下準備が必要だ。
まず、大阪法務局北出張所に向かった。土地台帳に当たったが、西川の父の名はなかった。借地か借家をしていたのだろう。府立中之島図書館(重要文化財)の3階の大阪コーナーで住宅地図の閲覧・コピーをした。先に、今の住居表示では「大阪市港区南市岡3丁目5番辺り」と港区役所から聞いていた。昭和29(1954)年に西川一家は高知市朝倉(高知大学のそば)から船で大阪に着いた。彼が小学校2年の時に転校してきた。大阪での生活が始まるのだ。
北に国鉄臨港線が走っていた。列車が走るたびに振動が伝わっていただろう。南は尻無川が流れている。「はしけ船が所狭しと行き来する」尻無川を飽かず眺めていた小学生の西川がいた。映画『泥の河』の世界が浮かんでくる。
父はタクシー(平和タクシー)運転手として働き出した。「一度出勤すると、二日に1回しか帰宅できないシフトで、過酷な勤務」で、母は「電球の二股ソケットのはんだ付けや、一升瓶のコルク栓作り」の内職に精を出す生活だったみたいだ。
貧困のため一家7人の生計を立てるため、兄姉は「学業もそこそこにアルバイト」に明け暮れることになる。
12月26日(月)、現地を訪れることができた。大阪民俗学研究会の行事に参加できた。同行者は、田野登さんと今村一善さんのお二人。その途中で田野さんと今村さんの知見をいただけたのに感謝する。
市岡元町公園の階段の段数を数えてください
盛り土の高さがわかりますね
右が市岡東中学校。急な坂道になっている
大阪府立市岡高校の旧正門
↑旧国鉄臨港線の跡
同上
環状線が見える
かなたに大阪ドームが見える
田中機械の工場跡にできた高層マンション
田中機械の塀が残る
田中機械の塀と高層マンション
臨港線の跡
同上(高架は阪神高速道路)
南市岡11番街
繁栄商店街
同上
同上
年末なのに人通りが少ない
臨港線の南側
臨港線の跡
西川きよしが住んでいたアパート辺り
臨港線跡から見た大阪ドーム
繁栄商店街の商店主に西川きよしが住んでいた辺りがどこかと尋ねた。そうすると臨港線の南側のアパートに住んでいたと証言してくれた。繁栄商店街はみなと通り(市電が走っていた通り)の南側に東西に走る商店街である。
西川は貧しい一家の暮らしを助けようと9歳から働く。小学生(大阪市立市岡小学校)の時、昼食に時間が「恥ずかしかった」と書いている。「母の手作り弁当は、いつもダシを取った煮干しをしょうゆとサッカリンで甘辛く煮たものが主菜。級友の弁当は魚からつくった桜でんぶをご飯の上に広げてあったり、卵焼きが入っていたり」した。「繁栄市場のアルバイト先の八百屋さんやお好み焼きさんにも可愛がっていただいた思い出」を『創立百周年記念誌 市岡』に西川は卒業生として祝辞を寄せている。西川は1946(昭和21)年生まれだ。1955(昭和30)年、今から67年前の大阪市港区の庶民の生活の一端を垣間見た。貧困が至る所にあった時代だ。現代の若い世代には理解できないかもしれない。みんなが貧しかった。働いた。しかし、どこかに希望があったのも昭和30年代だった。
今、貧困の格差が拡大していると言われている。西川きよしの小学生時代の体験を追体験して、私に何ができるだろうかと思案している。
【参考文献】
「私の履歴書」(日本経済新聞、2022年10月1日〜10月6日)
「大阪市全商工住宅案内図帳」昭和36年
「吉田住宅地図」1964(昭和39)年
「大阪市地籍地図(下)」昭和35年
「大阪市全商工住宅案内図帳(港区)」昭和39年1月
「旧土地台帳(大阪市港区南市岡町2丁目3番、3番の1、3番の2)」の閲覧・コピー。(大阪法務局北出張所で請求)
「創立百周年記念誌 市岡」(大阪市立市岡小学校発行、平成28年10月15日)