大震災の体験

 1995年1月17日、阪神淡路大震災が午前5時45分に起きた。縦振動で飛び起きた。そして横振動で家族は一室に集まり、怯えた。テレビから神戸市内の惨状が流れていた。でも、大阪市では火事も起きてないと多寡を括っていた。いつものように出勤の支度をして、近くの大阪市バスの停留所でバスを待った。街路樹が振動の度にブルンブルンと揺れた。バスが来ていつものように乗る。乗り継いで、豊里大橋を渡り大桐2丁目で降りる。

 

 徒歩で大阪経済大学の横を通り、瑞光中学校正門を入る。2階の職員室には全員が出勤していなかった。校長の挨拶もそこそこに、手分けして生徒の出欠を取るため教室に入る。初めて、地震の大きさを知ることになる。授業はもちろんできない。職員室で善後策について運営委員会などが開かれる。

 

 時間が刻々と経っていく。生徒を下校させることになる。教員はいつ退勤できるか。大阪市教育委員会からの指示が来ないので、待機を言われる。家族のことが心配だと同僚のイライラが募る。午後になって、やっと退勤していいと校長から言われる。

 

 教職員組合の書記局がどうなっているのかが心配で、福バスターミナル行きの市バスに乗車する。西中島南方で降りて、阪急電車南方駅近くのビルの2階に着く。開けると、机が動いていた。ロッカーが倒れていた。机を元の位置に直した。

 

 阪急電車はストップ。地下鉄も動かず。市バス以外の交通機関は動いていないのがわかる。仕方がない。新淀川に架かる新淀川大橋を中津に向けて歩き出す。誰も歩いていない。初めて徒歩で渡った。まだ被害の状況を知らない。梅田で映画を観ようとテアトル梅田の前に出た。ビルの窓が割れたり、ヒビが入っている。ガラスの破片が路面に落ちている。これは異常事態だ。阪急梅田駅を素通りして、安田行の市バスの停留所の列に並ぶ。かつての停留所は歩道橋から階段で降りた。孤島みたいになっていた。満員のバスに乗って、蒲生四丁目で降りた。

 

 自宅でテレビにかじりついた。鷹取車庫の炎上。高速道路の橋脚が倒れた画面には驚く。巨大構造物を倒すほどの地震の威力。埋立地液状化。市民病院の惨状。市営住宅の破損。商店街の火災。三宮あたりの火災。記憶の中の神戸が消えている。

 

 そんな神戸にボランティア休暇を取って、ボランティアに行くことになる。民医連のボランティアの車に便乗させてもらう。長田区番町地域で活動をした。