ラーメン屋の屋台が並んでいた東中浜

 1954(昭和29)年に工事が始まり、1969(昭和44)年に開削された第二寝屋川。工事が完成するまでは野原が広がっていたと、年配者が遠くを見ながら答えてくれた。第二寝屋川の汚水が生駒山から寝屋川に流れ込んでいた。

 

 私の家の南側には楠根川が流れていた。今は遊歩道になって、犬を連れた人が歩いているのがよく見える。楠根川今里筋の新喜多大橋で寝屋川に注ぎ込んでいた。ドブ川で埋められても仕方ないと思った。鯰江公設市場の南に喜澤橋が架かっていた。「ガタロ」と呼ばれる、川に入って金属類を集めてくる男たちのことだ。ネズミとりが保健所から奨励されて、鼠取り器のネズミを橋から吊るしてドブ川に一日中放っておいたりした。あの「ガタロ」はどこへ行ったのだろう。

 

 幼稚園児の頃か、小学生の低学年の頃だと思う。母に遊んでくると言うと、柄が悪い所へ行くなと言う。私が住んでいた所も柄がいいとは言えなかったが。「第二寝屋川の向こうへは行ったらアカンヨ」と言われれば余計に行きたくなるものだ。盛り土されて高くなった斜面を登り、橋を渡れば、そこからが東中浜地域だ。私にとって異空間だった。その中で、ラーメン屋の屋台がずらっと並ぶ風景に変な感動をした。先日、4大新聞の新聞配達員に聞いた。東中浜小学校周辺に住む人に聞けば教えてくれると保証した。それほど地元では有名なことなのだ。

f:id:higachanntan:20221031165402j:image東中浜公園
f:id:higachanntan:20221031165356j:image大阪市立東中浜小学校
f:id:higachanntan:20221031165406j:image小学校の玄関

 

 町会の古老にラーメン屋の屋台について聞いてみた。「城東区東中浜2丁目の東中浜公園の近くだ」と教えてくれた。私の記憶と同じであった。さっそく現地に向かった。

f:id:higachanntan:20221031173527j:image東中浜2丁目の町並み

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f:id:higachanntan:20221031190146j:image新しい建物が次々と建っている


 地元の方に聞いた。支那そば(中華そば)の屋台(20台くらい)が道の両側に並んでいた。朝からそばを湯がく匂いが漂っていた。台数には人によって誤差がある。ラーメン屋の親分が住んでいて、子分が周辺の家(アパートか)に住んでいたらしい。チャルメラの名人もいたらしい。親分は手配師で、テキ屋の親分みたいなものだとも説明してくれた。夜になると、チャルメラを吹きながら、三々五々あちこちに営業に出たのか。

 チャルメラの音が聞こえる。親が子どもに「ヒュルヒュルが来るぞ」と驚かせて寝床に追いやる。親はラーメン茶碗を持って、「おっちゃん、1杯頼むわ」とラーメンが茹で上がるのを待つ。「寒いから茹で上がったら持っていくわ」とそば屋の主人。主人は出来上がったラーメンを持っていく。

 ラーメン茶碗は家のを持っていく。なぜか。ラーメン屋の茶碗でもいいが、あまり綺麗に洗わないからだ。支那竹、焼豚、かまぼこが入った支那そばがなぜか懐かしい。衛生的でなくても。チャルメラの音が聞こえると、自然に足が向くのだ。

 

 最後に「ラーメン」の価格の推移を上げておく。昭和37年ー48.5円、昭和38年ー51.1円、昭和40年ー62.9円、昭和45年ー96円、昭和50年ー211円。100円玉(100円札)を握って注文をしたのだろう。

 あの懐かしい支那そば屋。今は屋台を引く者はいない。枚方市のラーメン屋が自動車(ライトバン)で回っているとテレビで報道していた。常連客が主人の後を継いで営業をしているらしい。屋台のそば屋の出現が待ち遠しい。

f:id:higachanntan:20221117171122j:image鴫野東の長屋

 後日、地元の長老から新しい情報を得た。城東区中浜公園の北側にも2〜3台の屋台が停まっていたらしい。基地ではなく、東中浜の基地に行って屋台を流していたのかもしれない。

 また、鴫野東1丁目の長屋にもラーメンを引く人たちがいたとも聞く。歴史の流れに消えて、チャルメラの音が懐かしい。

 (追記)11月26日20時45分ごろ、遠くからチャルメラの音が聞こえてきた。会議がなければ、駆けつけてラーメンを注文したいぐらいであった。5分後、その音も聞こえなくなった。ライトバンの窓から赤い提灯を出して流していくラーメン屋の映像が浮かんで消えた。

 

【参考】

東中浜の地元の方々のご協力によって、この小稿を書くことができました。感謝いたします。

「いまのラーメンは高くない?ラーメン屋の原価」閲覧(2022.11.3)