聞き書き「岡晴夫先生」の思い出

 近所に住む85歳の友人は、明朗でゴルフ好きの「師匠」だ。歌手の岡晴夫(オカッパル)のレコードを聴くご老人である。その師匠の聞き取りを書いていく。

 

 岡晴夫先生(1916年生)は1970年4月、守口市民会館でのショーの途中で倒れた。直立不動の姿勢で歌う「あこがれのハワイ航路」がヒットした。旧守口市民会館は国道1号線沿いにあった。

 ステージの幕が降ろされ、先生は病院に運ばれた。「岡先生が倒れた」という知らせを聞いて、私は自宅から駆けつけた。

 

 1965年頃、岡先生の付き人の一人だった。付き人は全員で10人ぐらいいた。18、9歳のペーペーだった私は、小遣いを先生からもらっていた。食事代もホテルコストも要らない。千日前にあった大阪劇場(大劇ともいう。現在はなんばオリエンタルホテル千日前)が私の寝床であった。小遣いの額は300〜500円ほど。コッペパンが3個買えた。大劇の向かいにうなぎ料理で有名な「いづもや」があった。現存しないが、まむしを食べたのを覚えている。

 

 岡先生は1960年前後、飛ぶ鳥を落とす勢いであった。一日3時間しか眠れないほどの忙しさ。私は大劇で前歌を歌ったり、アナウンスをしたりしていた。「みなさま、ようこそ大劇にお越しくださり、誠にありがとうございます。」と、独特の抑揚でマイクを握っていた。

 北野劇場(実演と映画で人気であった)と並んで、大劇は大阪の檜舞台の一つであった。大劇では、こまどり姉妹美空ひばりが出演していた。美空ひばりの取り巻きの佐々十郎(コメディアン)がお追従した時、ひばり(ファンは呼び捨てにせずに、ひばりちゃんと言う)が嬉しそうな顔をしていたのが目に浮かぶ。

 

岡先生はヒロポン中毒者で有名であった。マスコミでも報道していた。覚醒剤なので警察も監視していただろう。岡先生には個室の楽屋が用意されていた。楽屋には注射器が置かれていたのを見たことがある。どこから入手したのかは知らない。

 

【注釈】

 戦前・戦中、爆撃機の操縦士が眠らないように覚醒剤を使っていた。その商品名が「ヒロポン」だ。マルPで有名だった大日本製薬(今は大日本住友製薬)の製品名だ。大阪市福島区海老江に工場があった。戦後、軍需物資が放出されて、ヒロポンが薬局で簡単に入手できた時期もあった。雑誌の広告に載っていた。そして、ヒロポン中毒が社会問題化した。岡晴夫も時代の「子」であったのだ。