除名された川上貫一

 旧N党(今は政治家女子48党)の議員を除名する懲罰案が3月15日、参議院本会議で決定された。賛成235票、反対1票(政治家女子48党)だった。この議員は昨年7月の参院選で初当選して以来、国会欠席を続け、「議場での陳謝」の懲罰も拒否。一度も登院せず、約7ヶ月半で議員資格を失った。

 72年ぶりの除名処分と一般新聞に載っていた。72年前の除名された議員は誰かと探究心が湧き上がった。

f:id:higachanntan:20230321234459j:image↑川上貫一の写真(『時代をつないで−大阪の日本共産党物語』より転載)

 日本共産党の川上貫一がその人だった。

 1951年1月、衆院本会議で「日本の独立、平和は、全面講和の締結と占領軍の即時かつ完全な撤退によって実現される」と占領政策を批判した。「議院の品位を傷つけた」として懲罰委員会が陳謝を命じた。しかし、彼は拒否する。

 3月29日、賛成239、反対71で除名処分が下ったのだ。まだ日本がGHQ(連合国軍総司令部)の占領下だった。


f:id:higachanntan:20230320224547j:image↑せまい路地
f:id:higachanntan:20230320224553j:image↑この辺りに川上貫一は住んでいた
f:id:higachanntan:20230320224550j:image↑路地は迷路のようである
f:id:higachanntan:20230320224600j:image↑路地を抜けると、野江水神社に出た
f:id:higachanntan:20230320224609j:image↑空襲を受けていないので、長屋が残る
f:id:higachanntan:20230320224603j:image↑新建の家は無国籍的で、日本の気候を考慮していないのでは‥

 

 1949年以来、旧大阪2区から6回も川上貫一は当選した。「白髪の青年」と言われ、情熱に満ちた演説で人々を魅了した。東成区の東中本小学校で開かれた選挙演説会での思い出を友人から聞いた(大阪歴史教育者協議会 小野賢一氏の58年前の記憶による)。「参加者が少なかったが、気負うことなく参加者を近くに集め、訥々と話していた」と語る。城東区の今福小学校での演説会も同様であった。

 

 1951年1月の川上演説の内容は、一般新聞では報道されなかった。当時、日本共産党の機関紙『赤旗』は発行停止されていた。除名された川上は1953年の総選挙で国会に返り咲いた。

 

 川上貫一の名前は両親からよく聞いた。白髪の国会議員の印象が残っている。どこに自宅があったのか。西長堀中之島の図書館に足を運んだ。また大阪法務局(本局)にも当たった。

 

 川上貫一は外交委員会に所属していた。「国会便覧」に住所が載っている。大阪市城東区野江西之町3-139。中西進さん(国民救援会主催の「救援美術展」に協力した人物)宅の一軒置いた隣の長屋に住んでいた。三食は中西の妻が運んでいた。

 

 国会便覧の略歴には、党中央委員、関西地方局代表、党宣伝部長、岡山県出身、岡山農校卒とある。

 七反耕作の農業を営む父万槌、母かめの長男。1907年農学校卒業後野馳尋常小学校代用教員。14年阿哲郡役所書記を経て18年岡山県庁内政部勤務、大逆事件被告で県庁の先輩に当たる森近運平のことを知り、社会主義への関心を深める。21年北海道庁社会主事、24年長野県社会主事を経て、26年大阪府社会主事となる。マルクスの『資本論』を読んで、社会主義への確信を抱く。

 

 27年小岩井浄(弁護士、のち愛知大学長)らの昭和文化学会に参加、30年3日本産児制限協会の設立に関わり、8月進歩的婦人団体木曜会の講師などを務める。33年3月26日、日本共産党援助を理由に検挙、4月22日起訴される(大阪府社会課主事、46歳)。34年5月15日二審で懲役2年執行猶予5年の判決を受け出獄。

 

 大阪市北区中津の西本願寺派光徳寺(画家の佐伯祐三の実家)に居候しながら、35年8月大阪地方無産団体協議会の結成に協力、小岩井らと共に弁士陣を構成する。『医療と社会』の創刊に協力し、当初編集兼発行名義人。36年1月労働雑誌社関西支局設立と共に支局長となる。4月小岩井、清水巳之助らの日本政治経済研究所設立に協力する。共産党中央再建準備委員会の和田四三四らと連絡を取り、人民戦線運動の展開を図る。36年12月5日検挙、37年5月2日起訴される。38年6月3日一審で懲役2年6月の判決を受ける。大阪刑務所から豊多摩刑務所に移送され、41年春出獄。42年財団法人長尾厚生会に就職する。

 

 川上貫一は、1888(明治21)年1月28日に生まれた。そして1968(昭和43)年9月12日に西淀川区の西淀病院で亡くなった(80歳)。

f:id:higachanntan:20230414215424j:image↑川上貫一記念碑
f:id:higachanntan:20230414215427j:image↑西淀病院前にある記念碑

 72年の歴史に埋もれた代議士、川上貫一。彼の身の処し方から学ぶことは多いのではないだろうか。

 

 

【参考文献】

「大阪民主新報」2021年1月24日号

スポニチアネックス」2023年3月16日閲覧

「時代をつないで-大阪の日本共産党物語」日本共産党大阪府委員会

「国会便覧」(昭和39年版)日本政経新聞社

「時代に抗して光を求めた人々–治安維持法犠牲者名簿・大阪」治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟

「大阪における社会福祉の歴史I」大阪市社会福祉協議会