上六の東高津宮

 百楽本店を北に行くと、村社の東高津宮にたどり着く。

 この神社の現住所は、天王寺区東高津町である。しかし、この社はかつて東高津南之町にあった。近鉄本町駅の九番線ホームあたりにあった。昭和七年、大阪電気軌道(略して大軌、現在の近鉄電車)の駅舎拡張のため、大軌の用意した現社地に移転した。東高津北之町に移転した。

f:id:higachanntan:20220409210525j:image東高津宮
f:id:higachanntan:20220409210533j:image募金をされた方の名
f:id:higachanntan:20220409210523j:image境内に移転のことが書かれた碑(右側の碑)がある
f:id:higachanntan:20220409210530j:image鳥居

 東高津宮の鳥居は二度の移転をしている。昭和七年の移転で現社地に鳥居は移った。そして、昭和四十年の都市計画道路の開通でニメートル北側にセットバックする。

f:id:higachanntan:20220411012414j:image上六周辺の地図
f:id:higachanntan:20220411012352j:image本町六丁目(上六)の交差点。近鉄百貨店が見える
f:id:higachanntan:20220411012349j:image大和上六ビル

f:id:higachanntan:20220411012422j:image近鉄が建築中のマンション
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f:id:higachanntan:20220411012411j:image百楽
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f:id:higachanntan:20220411012356j:image百楽本店
f:id:higachanntan:20220411012344j:image百楽本店。千日前通りに面している玄関
f:id:higachanntan:20220411012400j:image近鉄上本町地上駅九番線ホーム

 東高津宮の社地の移転に、いかに大軌(近鉄)の影響力が強大であったかを示すエピソードだろう。

旧大阪電気軌道(大軌)ホテル

 大軌という会社名は私には馴染みのない名前である。近鉄の方が馴染み深い。近畿日本鉄道近鉄バス近鉄不動産など。城東区に「大喜橋」という、城北運河(城北川)に架かる橋がある。近くにあった病院で同室になった男性が教えてくれた。大軌四条畷線「大軌橋」になるのが、計画が消えて変わったのだ。

 

一方、大軌ホテルは百楽上本町本店になった。しかし、百楽がシェラトン都ホテル大阪に移転した。現在は倉庫になっている。

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f:id:higachanntan:20220409173541j:imageホテル玄関か
f:id:higachanntan:20220409173604j:image彫刻(右)をご覧あれ
f:id:higachanntan:20220409173613j:image彫刻(左)
f:id:higachanntan:20220409173537j:image西側から見る
f:id:higachanntan:20220409173545j:image蔦の幹にも歴史を感じる
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 天王寺区民の男性が旧大軌ホテルをよく見にくると言われた。レトロビルが破却されるのを惜しんでいた。近鉄の経営姿勢に批判的だった。金にならないからビルができるだろうと言って、角を曲がっていった。

鴫野東の段蔵

 灯台下暗しと言おうか、自転車で鴫野西から鴫野東へと足を伸ばした。段蔵があるではないか。

北河内高槻市に目を向けていたが、大阪市内の旧東成郡(旭区・城東区鶴見区都島区・東成区・生野区)に調査をしていきたい。

 まず、「段蔵」の定義から明らかにしたい。

 内田秀雄・中井稔(昭和37年)の研究を引用したい。内田・中井は「屋敷の北西隅に石垣を築き、母家よりもやや高く、建てられて」「洪水、大風などの災害に対処」し、「平時に家具、夜具、衣装、米穀などがしまって」「地域によっては舟(陸舟)なども収めてある」ものと定義している。

 「連立段蔵」が典型的な段蔵と言えよう。すなわち、屋敷の西北側にあり、東から西にかけて石段を順次高くし、それが段状になっているものである。土蔵が2〜3棟並んで連立的なものが「連立段蔵」と言えよう。しかし、一棟の土蔵も広く言えば段蔵と呼んでもいいだろう。

f:id:higachanntan:20220408141816j:image城東区鴫野東の段蔵(かつて養鶏場を営んでいた)
f:id:higachanntan:20220408141825j:image京橋に続く道の段蔵
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f:id:higachanntan:20220408141820j:image鴫野東の段蔵(西之町のだんじり蔵)
f:id:higachanntan:20220408141828j:image裏から見た鴫野東の段蔵

 段蔵に何が収納されているのかが気になる。所有者によって差異があるだろう。

 他の地域だが、居住できるようにリフォームしている段蔵もある。また、段蔵の機能も果たしていないのもあろう。無用の長物と化しているのもある。それが段蔵が消える理由の一つになっている。

 

上町台地西端の崩落現場

 2021年6月25日、上町台地西端の住宅の崩落事故はマスコミを賑わせた。現場には記者たちが崩落を期待して屯していた。

f:id:higachanntan:20220402214018j:image最後の一軒が西成区側に立っていた
f:id:higachanntan:20220402214007j:image上町台地西端に位置する。急傾斜になっている
f:id:higachanntan:20220402214009j:image記者たちは何を待望しているのか
f:id:higachanntan:20220402214012j:image住民たちは一躍マスコミの対象になった
f:id:higachanntan:20220402214021j:image盛り土の上の石垣に亀裂が走る
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f:id:higachanntan:20220402214004j:imageこの一軒が強制的に倒される

 写真の一部を足代健二郎氏の了解で掲載した。足代氏がカメラを持って迫真の撮影をされた。

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上六の百楽が閉店

 シャンソンコンサートの帰りに東高津町を歩く。上六の百楽が閉店の紙を貼っていた。

f:id:higachanntan:20220405110430j:image↑旧関急ホテルの西側

f:id:higachanntan:20220405110437j:image↑旧関急ホテルの玄関

f:id:higachanntan:20220405110442j:image↑旧関急ホテルの向こうにシェラトン都ホテル大阪の威容が見える

f:id:higachanntan:20220405110856j:image↑東側にコインパーキング

f:id:higachanntan:20220405110935j:image↑蔦が絡まっている

 関急ホテルだったという記憶は薄れている。文化財指定されてないから、所有者の自由になる。しかし、内部を改装して新しい商業施設として使えないだろうか?

 

 所有権が移転して、旧関急ホテルは耐震補強しても新築と同じぐらいお金がかかるので建物を壊す噂が流れている。一旦なくなった建物は二度と還らない。ただ記憶の中に留まるのだ。残念の一語である。

 関急(関西急行鉄道株式会社)は、1936(昭和17)年1月24日設立された。近鉄の前身にあたる会社の一つ。1942(昭和17)年10月に関急ホテルが開業した。現在の元百楽本店にあたる。

 

 

千林の段蔵を訪ねて

 地下鉄千林大宮駅から東に向かって、千林商店街を歩く。旧京街道と交差する。さらに京阪電車千林駅に向かう。鴫野西の内山さんに教えていただいた。大庄屋が並び、城東区の関目・古市あたりの農地を経営していたそうだ。

 大阪市詳細図(古市連合振興町会区域図)をよく見た。元京阪電車の路線跡とおぼしき斜めに走る線が見える。千林商店街と交差する横に「山下文具店」がある。地域の人が「京阪電車の切符を売ってはった」のが山下文具店だと教えてくれた。

f:id:higachanntan:20220403194948j:image京阪電車の線路跡
f:id:higachanntan:20220403194943j:image切符を売っていた山下文具店

 

 千林商店街の力餅食堂を右折する。細い道だ。段蔵が現れる。

f:id:higachanntan:20220403195523j:image京街道の看板
f:id:higachanntan:20220403195529j:imageさっそく段蔵が現れる
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f:id:higachanntan:20220403195526j:image段蔵

f:id:higachanntan:20220403195748j:image強頸絶間(こわくびのたえま)の説明板。千林2丁目に移設。
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f:id:higachanntan:20220403200146j:image右に真光寺
f:id:higachanntan:20220403200157j:image真光寺(浄土真宗本願寺派)
f:id:higachanntan:20220403200154j:image真光寺の向かいに段蔵がある。
f:id:higachanntan:20220403200136j:image前の道に井路が流れていた

f:id:higachanntan:20220403200143j:image段蔵かどうか不明だ

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 洪水に備えて、切石を使い、石垣を築く。そして蔵を建てて段蔵(乾蔵)にした。かつて縦横に井路川が流れていた。舟で移動できたそうだ。しかし今は埋め立てられて、井路川の記憶はおぼろげになってきている。

 

 

 

 

 

 

 

 

真田山陸軍墓地の花見

 4月1日に花見をするといえば、四月馬鹿かと思われるだろう。

 玉造の眼医者で診察を受けた後のことだ。左目に大腸がんの抗がん剤を注射するのだ。三万円を支払うのだ。年金暮らしには堪える。仕方がない、根本的な治癒方法はないのだから。来月に注射の予約をした。いつもは待合室が混雑しているのに、すんなりと会計を済ませることができた。昼食を済ませて、三光神社と真田山陸軍墓地に花見と洒落込んだ。

f:id:higachanntan:20220402203847j:image三光神社の鳥居

f:id:higachanntan:20220402182440j:image六文銭の幟がはためく
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f:id:higachanntan:20220402182419j:image真田幸村
f:id:higachanntan:20220402182400j:image真田の抜け穴。中には入れない
f:id:higachanntan:20220402182443j:imageここから陸軍墓地
f:id:higachanntan:20220402182408j:image亡くなっても、階級が付きまとう
f:id:higachanntan:20220402182427j:image花の下の兵士の墓
f:id:higachanntan:20220402182436j:image公園では子どもたちの声が響いていた
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f:id:higachanntan:20220402182411j:image陸軍兵士の整列のように見える

 

 真田山旧陸軍墓地日本陸軍が1871(明治4)年、日本で最初に設置した兵隊埋葬地である。西南戦争から太平洋戦争までの「戦死者」が埋葬されている。死者のうち最多は「病気」である。赤痢スペイン風邪(インフルエンザ)、コレラのように感染症で亡くなった者が多かった。小田康徳は、入営後における生活様式の激変、訓練への不適合や上級者・古参兵との関係に悩み、強いストレスに苦しむ兵卒等が多かったと述べている。(『旧真田山陸軍墓地、墓碑との対話』)

  花見もいいだろう。せっかく墓地に来たのだから、個々の兵士たちの墓標から聞こえる声を聴きとっていただきたい。