俳句に励んだ学生時代

 京都市で大学生生活を送っていた。俳句同好会に入会して、いろんな結社の俳句会に参加して、腕を磨いた。伝統俳句や社会性俳句の句会に顔を出していた。榎本冬一郎(群蜂主宰)先生の「よみうり俳壇」にも入っていた。1969年の頃だろうか。

f:id:higachanntan:20240326125622j:image大阪城公園の戦争遺跡(本文と関係はありません)
f:id:higachanntan:20240326125625j:image↑病院からの風景(本文と関係はありません)

 関西学生俳句会連絡会(関俳連)でも、他大学に友人ができた。雑誌で自らの俳句を披露していたことを忘れていた。

 東京で活躍される俳人の大井恒行氏からメールで雑誌の一部が送られてきた。感謝して、駄句を披露したい。

f:id:higachanntan:20240326125112j:image↑関俳連句集 創刊号

f:id:higachanntan:20240326130421j:image↑東野月沼(俳号が月沼)

f:id:higachanntan:20240326130453j:image↑編集後記と奥付

 かつて大阪では松瀬青々という俳人が活躍したが、今はその名は一部の人しか知らない。いま活躍する坪内稔典先生もかつて立命館大学俳句会に所属していたと記憶する。教師になって、大阪府科学教育センターで研修があった。講師が坪内稔典先生。二日間の研修で、二日目に句会があった。坪内稔典さんが私の駄句をとってくれた。こういう意味で作ったんでしょと言われ、そういう意図で作っていないとガックリされたと記憶がある。採用された句は覚えていない。

 

 手術後の静養と風邪を引いているため、外出を一切していない。外界とは電話とラジオだけで繋がっている。目には花粉メガネをしている。口にはマスク。襟にはマフラー。帽子を被っている。熱はなくなった。咳が残っている。パルオキシメーターで数値を測る日々が続いている。