エースコックのワンタンメン

 長らく秘蔵していた二人が、鴫野東の古本「たまや」に移った。自宅よりたくさんの方の目に触れたほうがよかろうと思ったからだ。一人は不二家のポコちゃん。もう一人がエースコックの子ぶただ。

 

 エースコックのキャラクターは、父母が乾物店をしていた時のものだ。エースコックのワンタンメンが売れに売れた頃のものだった。エースコックの会社は当時、淀川区三津屋にあった。今は大阪市の三津屋東公園になっている。現地にはまだ行っていない。エースコック(旧社名は梅新製菓→エース食品)は、かつて淀川区三津屋東公園付近にあった。(ウィキペディアを参照)

f:id:higachanntan:20231101154115j:imageエースコックの子ブタ

 今、小林製薬のサプリで日本中が賑っている。大阪市の大阪工場に大阪市厚労省の立ち入り調査が入ったと報道が伝えている。大阪市のどこだ。検索した。大阪市淀川区三津屋南3-13-35とある。工場街だ。三津屋ではたいへんなニュースだろう。今は有名になった大企業(チキンラーメン、天辻鋼球)が、三津屋の町工場で細々と事業を営んでいたのだ。

 

 普通なら、ヒガチャンも現場を撮影に行くのだが。今は入院中なので、外出もできない。

 病院の看護師さんは日曜日でも忙しい。ナースステーションに誰もいない。車椅子のおじいさんが何か言っている。近くの病室の看護師に伝える。おじいさんは物品搬送用のEVに乗ろうとしていたのだ。看護師の数が少ないのだろう。エッセンシャル・ワーカーの労働環境改善を法人に望みたい。

浪曲錬声会(2024.5.25)

 浪曲親友協会から郵便が来た。第36回浪曲錬声会の案内が入っていた。若手実力派4人が出演する。今から楽しみだ。

 女性浪曲師京山幸乃、三原麻衣の元気な声が聞けるのがうれしい。一方、真山隼人と京山幸太、人気を二分する若手の登場が楽しみだ。曲師も豪華メンバーだ。入場料が2300円は安い。

f:id:higachanntan:20240326172543j:image浪曲錬声会のチラシ

 国立文楽劇場小ホールだから、大劇場でないのがいい。語りをゆっくり聞けるのがファンにとって喜ばしい。

俳句に励んだ学生時代

 京都市で大学生生活を送っていた。俳句同好会に入会して、いろんな結社の俳句会に参加して、腕を磨いた。伝統俳句や社会性俳句の句会に顔を出していた。榎本冬一郎(群蜂主宰)先生の「よみうり俳壇」にも入っていた。1969年の頃だろうか。

f:id:higachanntan:20240326125622j:image大阪城公園の戦争遺跡(本文と関係はありません)
f:id:higachanntan:20240326125625j:image↑病院からの風景(本文と関係はありません)

 関西学生俳句会連絡会(関俳連)でも、他大学に友人ができた。雑誌で自らの俳句を披露していたことを忘れていた。

 東京で活躍される俳人の大井恒行氏からメールで雑誌の一部が送られてきた。感謝して、駄句を披露したい。

f:id:higachanntan:20240326125112j:image↑関俳連句集 創刊号

f:id:higachanntan:20240326130421j:image↑東野月沼(俳号が月沼)

f:id:higachanntan:20240326130453j:image↑編集後記と奥付

 かつて大阪では松瀬青々という俳人が活躍したが、今はその名は一部の人しか知らない。いま活躍する坪内稔典先生もかつて立命館大学俳句会に所属していたと記憶する。教師になって、大阪府科学教育センターで研修があった。講師が坪内稔典先生。二日間の研修で、二日目に句会があった。坪内稔典さんが私の駄句をとってくれた。こういう意味で作ったんでしょと言われ、そういう意図で作っていないとガックリされたと記憶がある。採用された句は覚えていない。

 

 手術後の静養と風邪を引いているため、外出を一切していない。外界とは電話とラジオだけで繋がっている。目には花粉メガネをしている。口にはマスク。襟にはマフラー。帽子を被っている。熱はなくなった。咳が残っている。パルオキシメーターで数値を測る日々が続いている。

 

 

大阪城天守閣

 久しぶりの大阪城天守閣。10時開門前に観光客の行列。外国人観光客と言っても、中国人、台湾人、韓国人などなど。

 いろんな言語が飛び交っていた。館内も展示を観る人でごった返していた。

f:id:higachanntan:20240314141707j:image↑開門前の行列
f:id:higachanntan:20240314141704j:image大阪城配水池

 観光客のみなさん、ほんまの大阪を観ているのでっか。ガイド本に載っているのが大阪ではありませんぞ。

 大阪城でいえば、天守閣の石垣がずれている原因を探るとか。アメリカ軍機の銃撃跡が残る石垣とかご覧かな。

港区民センター・港図書館が移転

 研修会場になったのが港区民センターだ。3階には港図書館がある。

 弁天町から中央大通を西に行く。港消防署を過ぎて、港区民センターの姿が現れる。

 

 新しい区民センターと図書館が2024年春に移転して、オープンする予定だ。港区磯路1丁目7-17に移転する。

f:id:higachanntan:20240314004752j:image↑港区土地区画整理記念・交流会館

f:id:higachanntan:20240314004822j:image↑戦災復興に向けた土地区画整理事業

関西スーパーの謎

 関西スーパーの店舗が、城東区には古市と蒲生、今福にある。最近は古市にまで足をのばすようになった。関西スーパーは長いので、縮めて城東区の友人は「関スー」と呼ぶ。

 一方、福島区民(鷺洲店がある)に聞くと、「関スパ」であった。関スパは関スパであって、関スーなんて認められないと強硬に主張する。私には関スパなんて、銭湯みたいな呼び名でしっくりこない。住之江区には関西スーパーが1店舗(安立店)しかなく、単に「関西スーパー」としか呼ばないとの回答があった。

 大阪市バス杭全行きの乗客にある日に聞いた。諏訪に住んでいる女性だったが、地域によって関西スーパーの呼び名が変わるのを報告すると、関スパなんて風呂屋見たいで変やわあと反応した。これほど互いに「変や」の応酬が続いている。

 蒲生店の店員に聞こうとしたが、アホな質問をするオッサンやなあと思われたくないので、いまだ聞いてない。

 次に、決定的証拠を示したいが、遠慮してほしいとの会社側の意向で映像を示すことができない。

f:id:higachanntan:20240314141127p:image関西スーパーからの回答

 蒲生店の店頭の値札には「関スパ」特価と表示されている。「関スパ」が会社公認である。しかし、地域性から城東区では「関スー」と呼んでいるのだから、民俗学的価値があると信じて大切に守っていきたい。

鶴見橋商店街②

 地下鉄四つ橋線岸里駅で下車して、西成区役所に向かう。『西成観光マップ』をいただいた。

 岸里交差点から西に歩く。南海高野線のガードをくぐる。

f:id:higachanntan:20240227205020j:image↑南海高野線のガード
f:id:higachanntan:20240227205013j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240227205017j:image↑西成千本北郵便局の近くの中央通寿会商店街
f:id:higachanntan:20240227205024j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240227205010j:image↑同上

f:id:higachanntan:20240227214906j:image↑南海高野線のガード

 銀座商店街には「ふたりっ子の記念碑」があるが、探したが分からなかった。平成8年〜9年に放送されたNHK連続テレビ小説のロケ地になった。その記念碑である。

f:id:higachanntan:20240227215045j:image↑銀座商店街
f:id:higachanntan:20240227215058j:image↑人通りが少ない
f:id:higachanntan:20240227215038j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240227215048j:image↑危機感を感じる

 南海高野線西天下茶屋駅(橘3-3-23)は、大正4年開業の駅。昭和50年頃までは、線路沿いの工場の労働者が利用し、1日の乗降客数が4000人ほどあったという。

f:id:higachanntan:20240227215030j:image↑南海高野線西天下茶屋駅
f:id:higachanntan:20240227215034j:image↑同上

 十三間堀川に向かって西に歩く。「共和」という工場が見え、その向こうに阪神高速道路堺線が見える。昨年、共和は創立100周年を祝ったそうだ。
f:id:higachanntan:20240227215041j:image↑ゴムバンドのトップメーカー「共和」本社(西成区千本)
f:id:higachanntan:20240227215055j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240227215052j:image↑旧十三間堀川(阪神高速道路堺線)

 

 津守神社は、津守新田開発の時に勧請された。西成区津守3-4-1。

f:id:higachanntan:20240227222152j:image↑宝橋交差点
f:id:higachanntan:20240227222126j:image↑津守神社の玉垣(白山殖産の名が見える。津守新田の白山家)
f:id:higachanntan:20240227222156j:image↑同上(白山家当主の名が刻まれている)
f:id:higachanntan:20240227222145j:image↑白山家の船場の本宅にあった「お化け灯籠」
f:id:higachanntan:20240227222119j:image↑白山殖産が最初に出ている
f:id:higachanntan:20240227222159j:image↑津守神社
f:id:higachanntan:20240227222149j:image↑白山宣太郎の名が入る玉垣
f:id:higachanntan:20240227222130j:image↑白山殖産の名が刻まれている
f:id:higachanntan:20240227222123j:image↑提灯にも白山殖産の名が見える
f:id:higachanntan:20240227222142j:image↑鳥居
f:id:higachanntan:20240227222134j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240227222138j:image↑同上

 津守神社の向かいに白山家の会所があった。そのあとに津守小学校(平成27年に閉校)ができた。大阪市顕彰史跡になっている。白山家別邸の庭園は大坂の代表的名園であった。

f:id:higachanntan:20240227223739j:image↑津守新田会所跡の碑
f:id:higachanntan:20240227223735j:image↑もと津守小学校(ふれあい喫茶の時には開けているみたい)

 南海高野線津守駅のすぐ西側に大阪府立西成高校、西成公園、下水処理場が見える。かつてここには大日本紡績(旧ニチボー)津守工場があった。

f:id:higachanntan:20240227224147j:image↑津守商店街
f:id:higachanntan:20240227224137j:image↑同上

f:id:higachanntan:20240303143919j:image↑津守商店街を西に行くと、大阪府立西成高校がある。
f:id:higachanntan:20240303143956j:image↑創立50周年になるのか
f:id:higachanntan:20240303143934j:image↑海抜0.9メートルの表示
f:id:higachanntan:20240303143911j:imageあべのハルカスが見える
f:id:higachanntan:20240303143930j:image津守駅の踏切
f:id:higachanntan:20240303143915j:image↑津守商店街

 大阪市三宝線は、なんばから住之江公園までバスが走っている。以南は住之江公園から堺駅西口行き(三宝停留所経由)が走っている。

 住之江公園行きのバスは、1〜2本/時間で運行本数が少ない。大阪市電が走っていたことを乗客の一人に言うと、「ああ、それで三宝線て言うねんな」と納得された。
f:id:higachanntan:20240303143927j:image大阪市三宝線の高架橋
f:id:higachanntan:20240303143938j:image↑今は道路に転用している
f:id:higachanntan:20240303143906j:image大阪市三宝線の高架橋
f:id:higachanntan:20240303143949j:image大阪市三宝線と南海高野線が交差している
f:id:higachanntan:20240303143945j:image大阪市三宝線跡
f:id:higachanntan:20240303143923j:image↑上が大阪市三宝線、下が南海高野線
f:id:higachanntan:20240303143902j:image↑南海高野線
f:id:higachanntan:20240303144000j:image大阪市三宝線が道路になったが、市バスやトラックは高架橋を通行できない
f:id:higachanntan:20240303143942j:image大阪市三宝
f:id:higachanntan:20240303143953j:image↑同上

 津守駅を東に行くと、津守商店街、鶴見橋商店街へと続く。

f:id:higachanntan:20240227224144j:image↑津守商店街
f:id:higachanntan:20240227224140j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240227224212j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240227224133j:image鶴見橋商店街
f:id:higachanntan:20240227224158j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240227224151j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240227224154j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240227224208j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240227224201j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240227224130j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240227224204j:image↑同上

 かつて鶴見橋商店街は日本で二番目に長い商店街と呼ばれた。天神橋筋商店街が最長である。

 商店街の歴史は、明治42(1909)年に大日本紡績(現ユニチカ)の津守工場が生まれたことに始まる。工場の東に流れる十三間堀川に橋が架けられる。鶴見橋という橋。

 通勤路線として大阪市電や南海高野線が開通して交通に至便な所になる。昭和4(1929) 年に商店街の原型が誕生したといわれる。そして、大阪大空襲によって工場が消失した。大阪市三宝線が廃止されると商店街の賑わいが消えてしまった。

【参考文献】

『にしなり観光マップ』(西成区役所)

『座談会 津守を語る会の記録』(西成区役所、平成4年3月)

『note 林裕之』を2024年2月27日閲覧(日本で二番目に長いと数えられた商店街を歩いた)