西区を流れる木津川の存在が、西区の戦災被害を分けた。本田、九条地域に長屋が多く残っている。そこには地蔵尊も祀られている。戦争をかい潜ってきた長屋を都市景観資源として、大阪市のまちづくりに生かしたいと願う。
↑先行調査「地域史研究のための地蔵信仰調査」(田野登氏)
↑田野登氏のお地蔵さん調査(1986年)(『上町台地今昔タイムズ号外』2017年、vol.8より転載)
今日(6月4日)、地下鉄緑橋駅から乗って、九条駅に降りた。中央大通で商店街が切断されている。北側の商店街の道幅は狭い。南の商店街は広い。もともとは北側の商店街には昭和の雰囲気が漂っている。長屋も多い。
↑地下鉄緑橋駅(昭和40年に市電代行車に乗った記憶がある)
↑大阪市立九条東小学校
↑同上う
↑同上
↑暴風水害記念誌(学校の塀に埋め込まれている)
↑同上
↑同上
↑同上
学校に隣接する九条東公園に碑が建っている。「大典記念碑」とある。御大典と同意である。誰の御大典か。大正天皇の即位は大正四(1915)年である。大正七年は1918年で米騒動の前の月になる。
公園管理の大阪城公園事務所に問いあわせた。『大阪市公園史』に基いて説明を受けた。大正七年、御大典記念事業の一環として「九条公園」として開園。園内には便所・東屋・門柱があった。そして、昭和31( 1956)年に都市公園「九条東公園」として 再開された。
↑大典記念碑(表)
↑同上(裏、大正七年七月建之、九条有志拾名)
『大阪市公園史』は大阪市立中央図書館にも所蔵していなかった。公園事務所だけが所蔵する文献なのだろうか。
↑九条小学校裏のお地蔵さん
↑同上
↑工事中の長屋
↑お地蔵さんが右手に見える
↑長屋に特区民泊ができている
↑マクド九条店で昼食
松島新地や茨住吉神社につながる九条の商店街は道幅が広い。空襲被害が大きく、道幅を広くできたのか。
↑ナインモール
↑松島新地で開業する医院
↑松島新地
↑同上
↑ナインモール
↑きらら九条
↑同上
きらら九条から疎開道路(阪神なんば線が通っている道を地元民はそう呼ぶ)を経由して、九条北小学校を目指した。疎開道路ができて、長屋が消滅している。
↑道幅も狭く、下町風の趣がある
↑同上
↑酒屋
↑路地が見える
↑解体工事中
↑ここで左に折れる
↑阪神なんば線(疎開道路)をくぐる
↑疎開道路
↑大阪市立九条北小学校
↑護美箱
↑孤立した長屋
↑阪神なんば線に沿って歩く
↑地下鉄中央線沿いに歩く
↑蔵のある家
↑同上
↑クリーニング店
↑この店も長屋
↑長屋が続く
↑うだつのある家
↑長屋
↑奥にお地蔵さんがある
↑路地に入る
↑お地蔵さんがない
↑路地の奥
↑同上
お地蔵さんがいない地蔵堂について、近隣の方に聞いてみた。お世話されていた方が亡くなって、今は黄檗宗九島院でお祀りしているということだった。
↑九島院
九条や本田で古い神社仏閣は、茨住吉神社と竹林寺、九島院の三つという。臨済宗九島院は太平洋戦争で全焼。戦後に再興した。
↑九島院
↑同上
↑同上
便が少ない路線バスの利用をやめて、川口四丁目まで歩く。
↑うだつのある会社
↑菊水温泉
↑同上
↑蔵のある家
↑日蓮宗の寺院
↑散髪屋さん
↑同上
↑『新修大阪市史第10巻(歴史地図)』(大阪市史編纂所、平成8年3月)
西区は大阪大空襲で丸焼けになったと考えていた。戦前の長屋が一部に残っていることを知った。空襲の被害がなかった証明である。本田地域と九条地域に足を運んでいる。お地蔵さんも残っているが、マンション建設が町並みを大きく変えようとしている。大阪長屋が占める大阪市の都市景観をどう守っていけばいいのだろうか。