三軒家東四丁目

 大正区にバスで出かけた。靱公園近くの岡崎橋停留所から鶴町四丁目行きに乗った。病院で新薬を処方され、靱公園に向かったのだ。岡崎橋とあるから、川が流れていたのか。
 在日本中国大阪領事館の周辺には常時機動隊員が警備している。その一角に「常源寺」があった。教師になった最初の学校の教頭が常源寺の住職だった。靭(うつぼ)教頭だった。たいへんお世話になった。大阪市立靭小学校(廃校)の記念誌に思い出を語る靭さんの対談が載っている。

f:id:higachanntan:20260530111947j:image↑浄土真宗本願寺派・常源寺
f:id:higachanntan:20260530111942j:image↑同上

f:id:higachanntan:20260530112035j:image↑岡崎橋停留所

 立売堀、白髪橋、あみだ池、桜川、赤手拭稲荷前、大浪橋、三軒家東四、永楽橋筋、千島と過ぎて、大正区役所前で下車した。資料をいただいて、三軒家東四に戻った。

f:id:higachanntan:20260530112929j:image↑大正区の地図
f:id:higachanntan:20260530112925j:image↑大正会館(左)と大正区役所(右)

  三軒家東四丁目停留所から東に100m歩くと、目的地の浄土真宗本願寺派・了照寺に着く。寺のHPから引用する。

 

 昭和20(1945)年3月13日夜半にアメリカ軍による大阪大空襲により、14発の焼夷弾を落とされた本堂は、前住職の宮本大亨師の命懸けの消火活動にもかかわらず、焼け落ちてしまった。

その後、昭和25(1950)年7月に仮本堂が元の位置に再建されたが、その直後の9月にジェーン台風により多大の被害を受けた。

ようやく前住職の念願がかない、昭和48(1973)年12月に現在の本堂が完成した。大正区は海抜0m地帯で、了照寺もたびたび被害を受けていたので、前住職の強い要望により本堂は2階になった。

f:id:higachanntan:20260530113313j:image↑了照寺の山門
f:id:higachanntan:20260530113344j:image↑了照寺

 戦後、「ベサメ・ムーチョ」で大ヒットした黒木曜子。その母子が玉川学園前の踏切事故で亡くなったのを悼む「母子観音像」が了照寺境内に祀られている。すでに猪飼野探訪会の足代健二郎氏から情報を得ていた。お参りしたいのをかねがね抱いていた。

 

 1921(大正10)に大阪市に生まれる。大阪府立泉尾高等女学校卒業。 1959 (昭和34)年2月18日、東京都町田市の自宅近くの小田急小田原線玉川学園前駅近辺の無人踏切を長女と共に横断中に下り列車にはねられ、長女(当時高校生)と共に轢死。38歳で没。事故から2カ月後には、交際相手で亡くなった長女の実父である作曲家の後藤資公が、事故現場の踏切で服毒自殺した。(Wikipediaより引用)

f:id:higachanntan:20260530115653j:image↑母子観音像
f:id:higachanntan:20260530115637j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260530115645j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260530115641j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260530115656j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260530115650j:image↑同上
f:id:higachanntan:20260530115633j:image↑同上

 

 

 参拝後、三軒家公園に足を伸ばした。そこには、「近代紡績工業発祥の地」碑が立っている。

f:id:higachanntan:20260601031035j:image↑三軒家公園
f:id:higachanntan:20260601030320j:image↑「近代紡績工業発祥の地」碑
f:id:higachanntan:20260601030329j:image↑同上

f:id:higachanntan:20260601031701j:image↑同上

 下校を急ぐ児童たちが校門から次々出てくる。三軒家東小学校が創立して百五十年になることを祝うタテ幕が民家の壁に掲げられている。
f:id:higachanntan:20260601030621j:image↑「三軒家東小学校 祝 創立百五十周年」の垂れ幕

f:id:higachanntan:20260601030625j:image↑大浪橋を遠望する

 長堀鶴見緑地線の大正駅までたどり着いた。駅のホームには冷房が入っている、電車内にも冷房がはいっていた。

 

 

 

 

【参考文献】

●西谷美緒「ベサメ・ムーチョ―黒木曜子伝」
『婦人公論 臨時増刊』(中央公論新社 72(7)<870> 1987.6)p316-343
十三歳頃の話(「曜子の家は大阪の播磨町にあった。」との記載あり)、上海のダンスホールで歌っていたこと、上海から引き揚げてきてから娘を出産したこと、新宿のダンスホール「フロリダ」で歌手として職を得たこと、ベサメ・ムーチョがヒットするまでのこと、事故のことなどが書かれている。人名及び地名の一部が変更されているようだが、詳しく書かれている。