Bunkamuraといえば、渋谷区のBunkamuraが有名だ。
これから話すのは、東京の文化村ではない。城東区の文化村である。鴫野駅から東、今里筋と城見通りが交わる交差点(鴫野東2丁目)から東へ行った辺りを戦後に「鴫野文化村」と呼んだらしい。
↑今里筋と城見通が交差している
ネットの「マンション図書館」(2026年5月6日17時に閲覧)は、文化住宅の意味と歴史について、関西と関東にわけて解説している。以下に引用する。
「関西の文化住宅とは、高度成長期(1960年代)に建築された2階建ての集合住宅のことをいう。主に近畿地方に建てられていて、とくに大阪に多い傾向がある。
各戸ごとに台所とトイレを設けた集合住宅が当時は文化的であったことから、文化住宅という名前がついたとされている。現在は大阪の郊外(門真市、寝屋川市)などに残っている。
関東の文化住宅は、大正から昭和にかけて流行した和洋折衷の住宅のことを指す。1922年(大正11年)に開催された「平和記念東京博覧会」の住宅展示「文化村」が、名称の由来。
文化村で展示された洋風建築は高い注目を集めた。文明開化による西欧化もあり、住宅にも洋風文化を取り入れる動きは活発になっていく。
昭和に入ると庶民に広まり、和風建築に洋風の応接間を設けた住宅を文化住宅と呼ぶようになった。戦前に建てられたということで、現在では有形文化財として保存されている文化住宅もある。」
大阪市立城東小学校卒業生三氏(80代)に聞いた。記憶は鮮明であった。通称「鴫野文化村」には微妙な意味が含まれている。だから、『鴫野の里』(昭和60年3月発行、志宜野今昔会)の記述を参考にする。ご了承願いたい。
「1945(昭和二十)年6月15日午前10時ごろ、米軍がB29で鴫野一帯に焼夷弾攻撃をした。焼失した地域は、聞通寺から森小路大和川線(今の今里筋)まで、南北は井路川(今の城見通)から楠根川南岸までであった。文化村も1〜2戸焼けた。
当時、通称文化村の北の端、井路川の近くに防空壕があった。現在の片町徳庵線(城見通)と森小路大和川線(今里筋)の交差点を東にへ約20m入った南側の道路上に当たる地点で、井路川べりの1m程の細い道に沿い、北に向かってコの字型に作られた。
6月25日、再び文化村や鴫野一帯の焼け跡を1トン爆弾が防空壕を直撃した。36人のご遺体が見つかった。
ご遺体は焼け跡に並べられたり、大日寺に運ばれた。戦後、防空壕があった場所で3町会が主催して、追悼盆踊りが行われた。道路が使用できなくなり、昭和50(1975)年頃から毎年8月20日に僧侶を呼んで、慰霊祭が行われている。」(抜粋したが、一部省略している)
慰霊祭は現在では行われていない。
↑鴫野今昔散歩道
↑大正後期旧村付近図
↑同上
↑同上
鴫野文化村とおぼしき辺りを歩いた。戦前の長屋が残っている。鴫野東二丁目には古い長屋が見られる。
↑りっぱなお宅
↑長屋
↑同上
↑長屋街が税金対策で駐車場になった
↑長屋が並ぶ
↑長屋
↑改装しても古い
↑カラオケ店
↑路地を入ると、長屋街
↑同上
↑旧井路川が城見通になっている
↑大阪市電気局(関西電力)のフタ
↑長屋
↑長屋
いくら通称「鴫野文化村」と言われても、私には愛すべき長屋街である。住めば都なのだ。