壽光寺18世住職継職記念「物語に浸ろう」(2月15日14時〜16時30分)に四つ橋線玉出駅で下車して参加した。
↑「物語に浸ろう」のチラシ@壽光寺じゅげむホール
壽光寺前住職の萼(はなふさ)慶典師のインド説話二話。「まことの智慧 やせた女」「落ちる男 慈悲を知る」の二話。愛=愛執(執着)。ストーカー犯罪がなくらないのもわかる。やさしく面白く語ってくださる内にブッダの教えが身体に入ってくるから不思議だ。
萼先生は、本願寺派の節談説教では第一人者と聞く。他にドクター・ボンズこと宝塚市の杉本光昭師(兵庫教区)がいる。
大谷派では、能登節談の後継者の広陵兼純師がいる。石川県輪島市門前町広岡の満覚寺の住職だが、寺が能登地震で被災された。滋賀県に避難されていると聞く。
(節談説教については、「節談説教研究会」のHPを閲覧した)
↑壽光寺
↑同上
↑じゅげむホール
真山隼人師の浪曲(相三味線は沢村さくらさん)は二席。「桜田門外余話 首護送」と「大石の最後」を前から二列目で聴く。先代真山一郎師ばりの節。「これでもどうじゃ?」と先代の声が聞こえてきそうであった。玉出は先代が住んでいた地だ。
1947年に華井新の門下になり華井満を名乗る。まもなく一座の花形となり1948年に華井新十郎と改名。師匠と二枚看板で全国を巡業する。
入門し数年がたった時に、真山は歌謡曲を吹き込みたくなったが、昔気質の師匠と対立してしまい、師匠に内緒で岸日出夫という名前でマーキュリーレコードから「内緒で御座る」を吹き込む。すぐに師匠にばれてしまい。破門となる。玉出で寿司屋(夫人の実家)で寿司職人修行をする。数年後、破門が解ける。
1957年、当時のマーキュリーレコードのプロデューサーが「日本一の山は富士の山、あの山のように一番になれ」という理由を込めて真山一郎と命名。1961年よりキングレコードの専属となる。1961年11月発売の「刃傷松の廊下」が翌年にかけて大ヒット。1971年新作歌謡浪曲「日本の母」が大ヒットし、浪曲の世界に復帰する。(Wikipediaを参考にした)
↑真山隼人師
↑真山隼人浪曲勉強会のチラシ@壽光寺じゅげむホール
↑彼岸寄席のチラシ@壽光寺じゅげむホール
↑深夜食堂のチラシ@近鉄アート館
↑同上
↑南座 歌舞伎鑑賞教室@京都・南座
↑同上
真山隼人師はたいへんな勉強家である。四天王寺の古本市で見かけたこともある。芸能に対する教養も豊かである。相三味線の沢村さくらさんとの息のあった口演には痺れてしまう。お二人の藝に対する熱に観客は惹かれる。お二人の藝道の進化から目が離せない。