大阪市西区の阿波座・薩摩堀公園に「八紘一宇」碑がある。公園には他に「薩摩堀川」碑もある。オールコック著の『大君の都』に薩摩堀の記述がある。大坂一物騒な場所であった。薩摩堀に面して廣教寺(浄土真宗本願寺派)という寺院があった。オールコックの宿泊所が廣教寺だった。オールコックは大坂見物をした。京都に上洛したいと幕府に申し出るが、生命の保証ができないと断られる。伊勢街道から東海道を経て富士山に登り、江戸に入府する。
そして、明治になって、廣教寺の境内に設けられたのが廣教小学校だった。その後、明治小学校に統合された。廣教小学校の跡地が阿波座センタービルと道を隔てた薩摩堀公園である。
薩摩堀公園は昭和28(1953)3月30日に開園した(大阪市建設局大阪城公園事務所調べ)。公園内の一角に「紀元二千六百年記念 八紘一宇」と彫った碑がある。紀元二千六百年とは、昭和15(1940)年になる。紀元二千六百年奉祝のため、廣教小学校の運動場東端に国旗掲揚塔が設置された。掲揚台の台座に「八紘一宇」が残っている。
「八紘一宇」とは、「天下を一つの家のようにすること。第二次大戦中、大東亜共栄圏の建設を意味し、日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた」(『大辞林 第四版』三省堂、2019年9月)とある。
大阪市立明治小学校のHPと『続・消えたわが母校』(赤塚康雄著、つげ書房新社刊、2000年)によると、
明治5(1872)年に広教寺境内に「西大組第十区小学校」が創立された。
明治11年9月、1444名在籍の大阪一のマンモス校になっていた。
明治12年に公立広教小学校と改称。
明治19年、西区立広教小学校になる。
明治20年、西区広教尋常小学校に改称。
↑1912年の大阪実測図(大阪市立図書館デジタルアーカイブより転載)
大正10年、大阪市立廣教尋常高等小学校になる。
昭和4年、鉄筋三階建て校舎が完成した。
昭和9(1934)年9月21日、室戸台風が大阪市を直撃する。
↑廣教小学校の写真(大阪市立図書館デジタルアーカイブより引用)
↑昭和17年の航空写真(マップナビ大阪から転載)
北側に廣教寺の甍が見える。大阪市立廣教国民学校が見える。廣教寺の北には阿波堀川が流れて、東側に薩摩堀川が流れている。
↑1937年の薩摩橋(大阪市立図書館デジタルアーカイブより転載)
↑同上
昭和21年3月末日、廣教小学校は西船場小学校に統合された。
昭和32年、明治・靭・広教の3校区が合併し、大阪市立明治小学校として復興。
昭和36年、廣教寺は大阪市の都市計画のために豊中市東豊中町に移転した。
紀元二千六百年奉祝で浮かれていた昭和十五(1940)年に「八紘一宇」碑(国旗掲揚塔)が建てられた。昭和20(1945)年に広教国民学校が閉鎖された。
↑薩摩堀公園も学校の校庭跡
↑八紘一宇の碑
↑同上(紀元二千六百年(昭和十五年)に建立)
↑同上(1940年が紀元二千六百年)
↑同上
↑薩摩堀川跡の碑
↑同上
↑同上
↑阿波座センタービル(廣教小学校の校舎が建っていた場所)
↑薩摩堀公園
↑同上
↑大阪市立児童院・明治小学校分校
↑同上
↑廣教小学校跡記念碑(平成3年に同窓会が建立した)
↑阿波座センタービル
侵略戦争の遺物が廃校になった学校の旧運動場東端にあるということになる。美国(ミングーアメリカ合州国)の帝王が日本国に軍事費を5%に引き上げろと言っている。きな臭くなってきた。戦争に出ていくのは後期高齢者ではない、青年たちが武器を持って前線に出て美国のために戦うことになる。
【参考文献】
『淀川の治水翁ー大橋房太郎ー』(小川清著、東方出版、2010年)
『続・消えたわが母校』(赤塚康雄著、つげ書房新社、2000年)