今は都市化の波に飲み込まれている鴫野東2丁目。JR片町線鴫野駅と大阪メトロ鴫野駅があり、交通至便でマンション需要も高い。さらに大阪公立大学森ノ宮キャンパスができて、地価が上がっている。
↑住友生命いづみホール(旧砲兵工廠跡地)
鴫野東2丁目に大きなお屋敷があった。東野福松氏が東野電柱工業株式会社を営んでいた。東側に邸宅があった。今は特別養護老人ホーム「しぎの黄金の里」がある西側に材木置場があった。当時の電柱は木製で表面にコールタールを塗布していた。その南側の片町線側に馬小屋があった。馬が材木を引いていたのか。馬子が馬を操って材木置場まで材木を出し入れしていたのか。材木置場の西側に国鉄の社員寮があった。
↑マップナビ大阪(鴫野東2丁目)。1928(昭和3)年の航空地図
↑同上。1942(昭和17)年の航空地図
福松氏には子どもがいなかった。それで北村家の長男を養子に迎えた。それが一郎氏だ。彼を養子にして、花嫁を放出(はなてん)から迎えた。子どもにも恵まれた。一郎氏は長男を可愛がって、ドラムが欲しいと言うと、ドラムセットを買い与え、長男は一日中叩いていたと聞く。「ドラ息子」と世間は評判した。一郎氏は大阪ボーイスカウト連盟で活躍した。大阪市立大学教授で、大阪市教育委員会教育委員も務めた。出張先の金沢で急死した。葬儀は国鉄鴫野駅まで参拝者で列ができたと聞く。
東大阪市に住まれる田野登会長と12月5日、しばらく電話でやりとりした。片町線鴫野駅の北東すぐに料亭があったと。そうそうおました。北には黒板塀の天理教網島分教会があった。教会跡も鴫野東近辺で最初のマンションになった。
料亭「よしの」の婿になった男性が田野さんと市岡高校で同僚だったのだ。その料亭の名は吉田地図(1960年の城東区北部)に載っている。料亭は今はマンションになっている。田野さんの同僚とは年賀の挨拶も途絶えているらしい。一階は地下鉄鴫野駅の入り口にもなっている。また、薬局、花屋、美容室などが入居している。
↑料亭跡のマンション
↑同上
↑同上
↑同上
料亭での宴会、忘年会をした経験者も少ないだろう。昭和50年代に料亭「すけの」(城東区今福西1丁目)で妻君が職場の忘年会に参加したのを覚えている。古堤街道と杉山街道が走る。玄関には水を撒き、きれいに整えてあり、格式の高さを見せていた。
↑うなぎ屋があった
↑料亭「すけの」さんのお宅
新喜多大橋北の交差点で西へ直行するのが古堤街道。杉山街道は南下して、鯰江川を渡る。新喜多橋を南下したら鴫野駅まで続く。杉山街道は鴫野駅のガード下を抜け、南鴫野商店街に入る。右折すると今里筋と再び交わる。トヨタカローラ大阪(株)城東しぎの店を通過して、くねくねと進む。
第二寝屋川(1954年着工、1969年完成)に架かる上城見橋を渡り、大阪市中浜下水処理場、中浜公園と平野川に沿って進む。衛門橋を渡る。ここからが旧城東練兵場だ。城東練兵場を突き進み、大阪城の杉山町まで行くのが杉山街道であった。練兵場は旧砲兵工廠に取り込まれ、軍国主義国家に大きな働きをした東洋一の軍需工場になった。現在はUR都市機構森之宮団地群が並んでいる。そこに大阪車両工業(株)の跡地に大阪公立大学森ノ宮キャンパスができた。
時代の変遷により、街道のルートも変わる。なかなかルートの確定は難しい。確定しなくてもいいかとあきらめて歩くのも一興かと思っている。