昨日(9月10日)、加古川駅の観光案内所でファイルを見た。そこには知らないことだらけが収まっていた。加古川駅の旧木造駅舎は、桜島線(現:ゆめ咲線)の桜島駅舎だった。今は、加古川駅は高架化されて、その木造平屋駅舎は存在しない。
加古川駅は、大正八(1919)年に改築され、二倍に広がった。それは新築ではなく、桜島線桜島駅から移築されたものだった。なぜ桜島駅の駅舎が加古川に引っ越してきたのか。
明治三十九(1906)年に西成鉄道は国営化され、西成線となる。終点は天保山駅だったが、港からかなり離れた場所に位置していた。鉄道院は明治四十三(1910)年4月、桜島埋立地に桜島駅を設けた。
明治四十三(1910)年に新築された桜島駅も手狭になり、大正七(1918)年に新築の駅舎ができた。西成線の貨物取扱高が『大阪港史(三)』(大阪市港湾局刊、362頁)に載っている。明治三十二年を指数100とすると、明治四十三年は659に増え、大正七年には2252と3倍強に増えている。第一次世界大戦によって、大阪の海運業界は隆盛を極めた。
築9年しか経ていないので、解体して加古川駅にお引越しになったそうだ。モダンな駅舎が加古郡加古川町(ちょう)にやってきて、加古川町民はびっくりしただろう。
明治時代の面影を残す駅舎が使われていたが、平成16(2004)年に駅が高架化されて、姿を消した。
↑昭和35(1960)年の旧加古川駅
↑大正時代の旧加古川駅
↑現在の加古川駅南口
↑同上(時計は設置以来20年が経過したので、市役所で選定中との回答だった)
↑道標。明治二十一(1888)年頃に建てられたか
↑同上
↑同上
『加古川の昔と今』に、昭和49年に加古川市民会館で市役所職員同席で加古川駅の保存か撤去かの論議がされている。
参加者の水田が「親父のおる間に重宝なものやったら、息子にこれはこうやと言うとかんことには残りまへんな」と言う。それを受けて、龍見が日岡山に「あれ(聖徳閣)はいい建物だったのに、なぜ潰してしまったのか、加古川に人がないのか言ってね。あの場所にOAAはりまハイツを造ったのは大きな失敗」と断じている。多木化学の創業者が建てた建築物を加古川市に寄贈したが、貴重な文化財級の建物が壊されたことを指している。
加古川駅の保存に話が移る。大村が「残してええもんと潰してええもんがあ」り、続けて「加古川駅はこんな古いもんいつまでも置いとったて、これ加古川の恥ですからなあ」と嘆じる。「大正大演習の時に、天王寺からそれも古いやつを持って来とんでっさかいかなり古いんですね」とまちがった歴史認識で判断していた。
酒見が「加古川の象徴ですなあ」と言って、書いてないが一同頷いたのであろう。
「加古川の恥」と言わせた木造平屋の加古川駅舎は潰された。失われた加古川駅は今はない。記憶や映像のみに残っている。「加古川の象徴」と言われた加古川駅は静かにつぶやいているだろう。旧加古川図書館の保存問題が気になっている。
↑旧加古川図書館(1935年竣工)
【参考文献】
『明治・大正・昭和初期の加古川』(加古川総合文化センター、1990年刊、博物館図録)
『えほん・はりま』(広瀬安美著、のじぎく文庫、1974年)