今年は『女工哀史』が出版されて100年を迎える。男子普通選挙が行われ、同時に治安維持法が施行された。1925(大正十四)年、細井和喜蔵が『女工哀史』を出版する。
細井和喜蔵は、1897(明治三十)年、京都府与謝郡加悦町(現与謝野町)加悦奥に生まれた。
13歳の暮、曽祖母を残し、汽車で大阪を目指した。大阪府立職工学校(現在の大阪府立西野田工業高等学校)夜間部に入り、3年の課程を修了した。内外綿(わた)会社第一紡績工場に入り、入社3日目に事故に遭った。ボール盤の歯車に左手の小指を「咬み切られ」た。労働者の不注意だとされた自己責任の時代である。
和喜蔵が入った内外綿会社第一紡績の東隣に三重紡績があった。三重紡績はその前身を浪華紡績といった。紡績工場は今はUR賃貸住宅伝法団地に変貌している。1891(明治二十四)年10月28日の濃美地震のため、浪華紡績は三階建ての工場が倒壊して、多数の女工がレンガの生き埋めになった。即死者17名の犠牲者が出た。慰霊碑は1892(明治二十五)年10月28日建立された。
↑浪華紡績会社等震災死の慰霊碑(正蓮寺墓地内)
↑恩貴島橋の橋標
↑同上
↑正蓮寺川(淀川左岸線のトンネル上を公園にするために工事中)
↑同上(下流)
↑恩貴島橋を南下すると、春日出商店街を経て、此花楽園(今の此花区役所)に至る
↑此花楽園(昭和九年に大阪市が買収。提供:此花区役所)
↑正蓮寺川の川中島(明石島)は何処か
↑恩貴島橋の橋標
↑恩貴島橋を渡ると、正蓮寺に至る
↑正蓮寺
↑同上
↑同上
↑同上
伝法は醸造業でも栄えた。みりんや酒の産地でもあった。山邑家は酒造りが本格化した伊丹・荒牧村で米を作り、余剰米で酒を造る農家」であった。「伝法の正蓮寺開山時に山邑の酒をたくさん寄進し、「荒牧屋」という屋号で1625(寛永ニ)に創醸され」た。その後灘の宮水で醸すため伝法から移転する。墓は正蓮寺境内にある。今も参拝に来られると聞く。(「桜正宗」のHPを2025年8月11日に閲覧)
↑山邑氏の墓(「桜正宗」の醸造の祖といわれ、明治21年12月建立)
紡績工場の女工たちは寄宿舎で寝起きをしていた。寄宿舎は正蓮寺川の川中島(明石島)にあった。細井はその島を「奴隷の島」と呼ぶ。四貫島まで行くには、彼女たちは外出許可がなければ島から出られない。脱走しようにも周りは川だ。アメリカ・サンフランシスコの沖合のアルカトラズ刑務所のようなものだ。脱走がばれると、暴力制裁が待っている。島の北に架かる橋を渡り、正蓮寺川右岸に辿り着く。そして恩貴島橋を渡ると春日出商店街から此花楽園(公園)や繁華街に行ける。此花区は新田開発で造成された地域。繁華街以外は畑が広がり、新田スイカで有名だった。
さて、「奴隷の島」は今のどこにあるのか。
↑正蓮寺の坂を登ると、某企業の独身寮がある
↑正蓮寺川右岸堤防(この堤防の北側にあった明石島が埋められたか)
↑右岸堤防を上流まで歩くが、雑草で行けず
↑正蓮寺川の右岸堤防
↑「明治三十三年大阪市役所発行大阪市街全図」に恩貴島橋(軍用橋)の上流に明石島が描かれている
「大阪市内及び接続町村地番入地図」(大正八年3月)の伝法を見ると、明石島(奴隷の島)に渡る橋は架かっていない。伝法南三丁目の伝法川沿いには内外綿会社工場と東洋紡績西成分工場が西・東に明記されている。
「五千万分の一 地番入大阪市図」(昭和八年5月)西九条を見ると、明石島に橋が記入されている。
「最新地番入 大阪市地図」(昭和二十六年)になると、橋は残るが明石島は埋められている。
↑和紙公図の左下に恩貴島橋が描かれている。地番の90番から右に92番がかつての明石島(奴隷の島)と思われる。
↑奴隷の島の地図(提供:田野登氏)
1925(大正14)年に大阪市は「 大大阪」になった。大大阪のイメージは偉大な大阪市だろう。しかし、内実は資本主義が労働者の犠牲の上に成り立っていたのだ。