もと鯰江公設市場(城東区新喜多東2丁目)の鉄筋コンクリートの建物が建っている。大阪市経済局(現:大阪市経済戦略局)の所有である。市場は大正14(1925)年に開業した。一階は「本の森中之島」の倉庫として使っていた。二階は保育園に貸している。
1950(昭和25)年にヒガチャンは鴫野東4丁目の長屋で生まれた。
↑鴫野東4丁目50番地(手前の三階建ては、平屋の長屋だった)
↑城東小学校前に産婆さんの今井さんの家がある
↑同上
↑城東小学校から今里筋(生野区に入ると三条通り(産業道路)という)に至る道
↑同上
↑南鴫野商店会(かつて鴫野駅前にあった闇市が移転してきた)
↑同上
父はその当時サラリーマン(職工)であった。その後、新喜多4丁目の伯父が所有した家を借りて、家の前で小商いをした。公設市場に買い物に行く客で前が見えないくらい繁盛していた。公設市場には東と西に入り口があった。家は西入り口にあった。10軒くらいの店が商店会を組織した。城東区では「城東商店街」の商圏が大きかった。鯰江商店街の商圏も大きく、北は今福東、南は鴫野東3丁目、西は蒲生1丁目まで配達していた。
↑旧楠根川が埋め立てられて、遊歩道になった
↑同上
↑旧鯰江公設市場の東口に続く道
↑旧実家(二軒分がヒガチャンの家だった)
↑鯰江公設市場の東口
↑旧鯰江公設市場(二階は保育園)
↑旧鯰江公設市場から東を見る(アーケードが続いていた)
↑新喜多新田会所跡
↑同上
↑同上(ヒガチャンの実家跡)
鯰江公設市場には親戚の経営する酒屋(山内酒店)があった。伯父も酒屋を桃谷駅前で経営していた。小商いから乾物を商うようになった。父と母が「東野商店」の主であった。母の方が商売に向いていた。買い出し(自転車ウエルビー号で中央市場本場まで買い付けていた)と値付け、配達が父の分担であった。店での客との応対や販売が母の役割だった。社交的な性格の母には向いていた。一日の売り上げを夜に家族で計算した。硬貨別に重ねて、そろばんで合計していた。カゴをゴム紐で吊り下げて、硬貨を入れていた。夏にはハエ取り紙を吊り下げていた。
自宅と店が同一であったので、経営のイザコザが家庭に持ち込まれてくる弊害があった。店で母と客との会話が父の感情を害していた。戦争中には「青春」がなかったと言った母の発言が父に怒りの火を点けていたのだ。夜に些細なことから夫婦喧嘩になってしまった。赤玉ワインを飲んだ母は顔が真っ赤であった。母が「死んでやる」と包丁を出した。殺気が漂った。母の弟(徳庵に住む叔父)がやってきた。両者を分けて事情を聞いた。
私と弟はどちらの味方をするかと思案した。戦時中の青春もありやと考えたヒガチャンは母についた。弟も母側に。かわいそうな父は孤立無縁だ。金儲けは店でして、別宅で家庭生活を営むのがいいと確信した。司馬遼太郎の鶴橋にあった福田薬局も店と自宅とは別であった。
それほど客足に恵まれていた商店経営もスーパーマーケットの進出で傾いていった。城東商店街にダイエーグループの「スーパー・カナエ」が進出してくると、商圏が狭まった。鯰江商店街にアーケード建設の機運が盛り上がった。各商店(10軒)がお金を出し合った。
鯰江商店街と名乗る前には、衣料スーパー「キリンド」の店が一商店としてあったと聞く。それほど賑わった公設市場だった。
↑新喜多新田会所跡
↑新喜多新田会所跡から旧自宅を見る
昭和40年代の後半には、客足が途絶え、開店休業状態であった。父母は廃業も考えていた。信用組合からも資金を借りて、3階建ての鉄筋コンクリート造りのアパートを建てた。満室の家賃収入で、家族は息をつげた。昭和48(1973)年以降に店じまいをした。夫婦仲は平穏であった。
その父母も一心寺に祀られている。母が先に逝き、父が3年後に亡くなった。骨仏になって、仲良く善男善女に拝まれている。