戦時中の性被害

 昨日(5月2日)の午後、新喜多(しぎた)のAさん(93)宅を訪問する。内密の話なのでご自宅を訪問することにした。

 あたりには喫茶店もない、コンビニには店内で座ることもできない、クリ-ニング屋も閉店した、と明るい話がない。内密の話なので、ご自宅に上げていただいた。

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   Aさんが戦争中の話をしてくれた。軍部が横暴を極めた時代のことだ。昭和七(1932)年に河内・大和で陸軍特別大演習が11月に行われた。一般宿舎の調査を最終的に大阪市がした。舎主の住所・氏名・生年月日・職業・族称・家族数・家族中病人の有無・借用室数(和室・洋室)・電話番号・自動車通路の有無などを調べた。調査家庭の最低基準は、2室で20畳であった。旭区では蒲生の杉田善右衛門、野江の大森治一郎・大西繁次・森田孫兵衛、東成区猪飼野町の福本元之助などが高官に宿舎提供をしている。(『昭和七年 陸軍特別大演習 大阪市記念誌』大阪市、昭和八年)。大阪市内で宿所は15000戸で兵隊は50000人になる。

 

 近所のBさんに陸軍から命令が来た。屋敷の一部に兵隊を駐屯させてほしいと。命令を拒むことができない。受け入れた。家族は夫婦と長男、長女の4人。

 「役所が町内の有力者と協力して宿舎の割当を決めたであろう。「誠意」でもてなし、兵士も「謙譲」で接して、「粗暴倨傲」にならないようにしたであろう」(『編纂所だより』第63号、大阪市民と兵士の宿泊-陸軍大演習からみる-を参照)。

 大阪市史編纂所の平良調査員の示唆をいただく。それを記す。『昭和七年 陸軍特別大演習 大阪市記念誌』を閲読すれば、タテマエはわかる。そこから漏れているのがあるだろう。名誉と喜ぶ宿所の主人もあれば、有難迷惑と内心喜ばないグループもあっただろう。当時の新聞記事を詳細に見ないと真実はわからない。

f:id:higachanntan:20250521115536j:image↑『昭和七年 陸軍特別大演習并地方行幸大阪府記録』の写真
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 兵隊が来て、しばらくして。ある日、長女が兵隊に性被害を受けた。妊娠はなかった。それから長女は精神的に気がおかしくなる。家族は座敷牢に彼女を閉じ込める。髪は乱れ、表情も変化した。当時、損害賠償は物的損害に限られていた。天皇の軍隊が性加害をするとは想定していなかった。

 ある日、座敷牢から抜け出した長女は近所をふらふらと徘徊した。着物ははだけて、足は裸足だ。Aさんが小学生の時だ。長女と目が合った。女は着物の裾を上げて、局部を見せて、笑いを見せた。女はまた座敷牢に戻された。

 その記憶を知っているのはAさんしかいない。B家の性被害を第三者から聞かれたそうだ。B家の長男は先日、100歳で亡くなった。長女がどうなったかは誰も知らない。ただ独身であったことは事実である。

 

 

 Aさんの奥さまが話の輪に入った。大分県佐伯(さいき)市出身だ。佐伯湾は、海軍が真珠湾攻撃に向けての予行演習をした場所なのだ。「平和記念館やわらぎ」が詳しいとも聞いた。


 「佐伯市平和祈念館やわらぎは、市民の皆様から寄贈・寄託いただいた資料の展示を通して、先の大戦の歴史を伝え・平和について考える場として、平成9年に佐伯海軍航空隊兵舎跡地に開館しました。

 過去の歴史を見てみると佐伯と海軍の関わりは古く、瀬戸内海と太平洋を結ぶ豊後水道の喉元に位置する佐伯は、海軍航空隊の基地が置かれる以前の明治時代後半から毎年のように演習のため艦隊が集結していました。

 昭和9年には、日本で8番目の海軍航空隊が佐伯に置かれ、「軍都」として街が発展する契機となりました。さらに、日中戦争真珠湾攻撃では重要な役割を担っていました」

 「昭和 16年11月には、ハワイ真珠湾攻撃に先立って、佐伯湾にて連合艦隊の最後の統一訓練が行われました。佐伯湾は水深が浅く、真珠湾と状況が似ていたことも、訓練地に選定された理由のひとつです。

 終戦間近には航空隊基地の存在が攻撃の標的となり、度々空襲に見舞われることとなりました」(「佐伯市平和記念館やわらぎ」のHPから引用)

 

   戦争は人を変える。憲法記念日に思った。