小説「天才児」

 大阪教育大学柏原キャンパスに行くことになった。大教大付属図書館にしかない文献を実見して、コピーさせてもらうのが目的だ。

 

 かつて筒井康隆が昭和21(1946)年に大阪市立中大江小学校に転校し、放課後に「特別教室」に入級したことをこのブログ(「天才児」)で発表した。筒井と同級であったA先生は戦後、『詩誌 猟』の同人であった。同人誌(4冊)が大阪教育大学付属図書館に所蔵されているのだ。1954年1号、1956年8号、1958年14号、1954年別巻の四冊のみだ。そこに載る同人の中で、A先生と河野幹雄氏の名が載っている。

f:id:higachanntan:20250330213045j:image↑『詩誌 猟』

 河野幹雄氏はその著作が多い。『子どもを伸ばす生活綴方』(佐古田好一・河野幹雄共著、どの子も伸びる教育実践シリーズ)が有名だ。同和教育の著作も部落問題研究所から出している。河野氏はすでに死没されていると思われる。元大阪市立大桐小学校にもいらっしゃった。大阪学芸大学卒業とも聞く。「なにわ作文の会」に所属し活躍した。教職員組合大阪市教組北大阪支部に属した。

 A先生と河野幹雄氏とは交流があったのだ。A先生とは同和教育では私と考えを異にしていた。A先生は傍目には出世を目指して、職場ではトップを走っていた。管理職よりも発言に重みがあった。学閥の中でも彼は際立っていた。大阪市内の義務制の職場では、四大学閥が存在していた。友松会(天王寺師範系)、瓊池会(池田師範系)、同志会(その他の私学)、興東会(奈良教育大学系)である。

 A先生の人生(ご健在であるそうだ)を文献でわかる範囲で描いてみたい。埋まらない部分は、推測で埋めていきたい。

 

 近鉄大阪線の急行で国分駅まで乗車。普通に乗り換えて一駅で大阪教育大前駅だ。午後からエスカレーターの点検で運転が止まる。徒歩で行こう。心は図書館に急げども、足は重い。

f:id:higachanntan:20250330043136j:image大阪教育大前駅から続く陸橋

f:id:higachanntan:20250327143946j:image↑生協食堂のどんぶり(学外者なので、50円プラス)

 

 A先生は、吹田市大字佐井寺に父母と住んでいた。阪急千里線千里山駅が最寄りの駅か。千里第二小学校(昭和16年に千里第二国民学校になる)に在籍していたのだろう。1946(昭和21)年に1クラス70名のすし詰めになり、二部授業制が3年間も続いた(千里第二小学校のHPを参考にした)。A先生も筒井康隆と同様に中大江小学校に転校したのかもしれない。実家は吹田市だから、筒井と近所なので、ひょっとすると通学も一緒かもしれない。エビデンスがないので、妄想は膨らむ。

 

 中大江小学校の「特別教室」で全市から集まった「天才児」に囲まれて、A先生は大きな刺激を受けただろう。大阪市立東中学校(新制中学)に40人の天才児も入学する。その後、大阪学芸大学(天王寺)に入学する。どんな学生だったのかはわからない。60年安保(昭和35年、日米安保条約締結反対運動が盛り上がる。ストライキや御堂筋のフランスデモ行進で学園や職場から意思表示する人々)で国内が騒然とする。学園からA先生も集会やデモに参加しただろう。同人誌から詩作に耽る文学青年の印象を受ける。彼は淀川区の中学校教諭の時(39歳)、自作のプリント教材でプロレタリア文学(黒島伝治の小説『渦巻ける烏の群』)を取り上げた記憶を私は持つ。普段の教師然とした彼と比較して、不釣り合いなプロレタリア文学を教材に使用したのが意外であった。職員会議で提案を追及されて、「私はアホやから、理解できない」と卑下したことがある。彼の自らを卑下する発言は意外であり、「政治的な匂い」も感じられた。30代で出世街道を直走る

彼の若さと老獪さがなせる発言と解した。

 彼を私は結婚式(大阪私学会館)に招待した。学年主任だからスピーチもお願いした。他にも招待しようとした方もいた。誰が参加するか聞かれて、A先生の名を出すと断った方もいた。彼は職場の一部の先生から嫌われていたのだ。披露宴で祝辞(詩經の一節)を述べた。国語の教科会では同席したが、学年会では親近感はなかった。

 のちに彼は出世して校長になった。ある職場で彼は「アイヒマン」と呼ばれていた。アイヒマン強制収容所ユダヤ人を送り込んだナチスの戦犯で、死刑判決を受けて執行された人物だった。アイヒマンユダヤ人虐殺に手を貸した人物だが、命令を忠実に遂行する人物であった。

 アイヒマンユダヤ人移送局長官で、アウシュヴィッツ強制収容所へのユダヤ人大量移送に関わった。ホロコーストに関与し、数百万人におよぶ強制収容所への移送に指揮的役割を担った。

 第二次世界大戦後はアルゼンチンで逃亡生活を送ったが、モサドによって拘束され、イスラエルに連行された。1961年4月より人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われて裁判にかけられ、同年12月に有罪、死刑判決が下され、翌年6月1日未明に絞首刑に処された。(Wikipediaを参照)

 

 出世競争のトップを走るA先生。好事魔多し。昭和52(1977)年10月15日に起きた火事で彼の娘二人が焼死することになる。朝日新聞(1977年10月16日朝刊)の一面に「ピアノ塾焼け 三人死ぬ」の見出しが出ている。福島区にあった大阪大学救急救命部に収容されたが、姉妹は相次いで亡くなる。姉妹が焼死したのは父親の彼に大きな衝撃であったのはいうまでもない。彼は、S会という「政教一致の独善団体」(小野賢一氏の命名)に入信する。教育界でその「独善団体」は力を持っている。管理職人事に学閥が力を持っていた。大阪市の四大学閥の一つである友松会(天王寺師範系)に属し、「独善団体」の会員でもある彼には管理職のポストが近くに見えてきただろう。そして、ある同和団体支部と太い繋がりがあるのも有利であった。いつまでも彼は娘の死を悼む気持ちに留まってはいられない。彼は娘の死の衝撃を乗り越えていくことに決断した。昭和55(1980)年4月に淀川区の中学校教頭の発令を受けた。昭和55(1980)年4月が彼の人生の転回点と言えるだろう。

 

 同人誌(昭和29年、第1号)に同人の住所が載っている。6名の氏名と住所が載っている。河野幹雄氏の住所は神戸市東灘区本庄町とある。発行所は西淀川区佃町にあったが、のちに城東区放出中(現在の鶴見区放出東)に変わった。同人誌がいつまで続いていたのかは不明である。

 A先生が20代に詩人であったのは『詩誌 猟』から窺い知ることができる。詩人で天才児であったA先生が姉妹焼死事件を挟んで、管理職への階段を登っていく過程に彼の天才児の誇りと挫折と世間的出世への妥協を見ることができる。

 GoogleマップでA先生の自宅には池田市議会議員(S会の関連政党)の看板が建てられているのが見える。彼はその宗教に頼っているのだろう。

 

 筒井康隆が新潮社のPR雑誌『波』に毎月投稿しているのをお伝えしておく。「特別教室」を自ら語ってくれることを祈っている。