大阪市立船場中学校はかつて谷町筋の西に校地を持っていた。旧東区では東中学校と並ぶ名門校だった。戦後、越境通学で生徒数が膨らんだ。京阪電車で通学する生徒も多かった。また、住民票を知人宅に移したケースも見られた。
城東区に住むある医師の証言では「PTA会費が違っていた。東区在住者は5000円、その他は一万円だった」と。越境入学を認めていた学校側の対応であった。ただ、居住先を東区に移している保護者が多かったので、規約が有効だったのかは不明だ。
大阪市は船場に校地を求めたがなかった。廃校になっていた大阪市立中大江東小学校の校舎を使って、船場中学校は開校した。
その船場中学校も1998(平成10)年に廃校になり、大阪市立東中学校に統合された。校地は大阪市から転売され、今は超高層マンションになっている。
↑船場中学校の跡地に建つマンション
↑大阪市中大江東尋常小学校の碑
↑大阪市立船場中学校の碑(谷山茂作詞、山中ニ朗作曲)
↑船場中学校跡のマンション北側
↑谷町筋が見える
↑突き当たりが旧大阪法務局舎
↑大村益次郎寓居跡の碑(徳井町)
↑同上
↑谷町筋(谷町3丁目)の井原西鶴終焉の地
↑同上
↑同上
↑同上(辞世の句「浮世の月 見過ごしにけり 末二年」)
↑同上
芭蕉の「夏草や つはものどもが 夢の跡」である。しばし瞑目する。