「天才児」

 戦後の昭和21(1946)年、大阪市役所教育部(現在の大阪市教育委員会)市川寛教育部長の「発案」で、全市の各小学校から「天才児」を集めて、大阪市立中大江小学校で「特別教室」(40人位)を開いた。週に2〜3回ほど放課後に実施された。

f:id:higachanntan:20250215193311j:image大阪市立中大江小学校
f:id:higachanntan:20250215193208j:image↑同上
f:id:higachanntan:20250215193307j:image↑校区の町会地図(玄関前)
f:id:higachanntan:20250215193217j:image↑タイル
f:id:higachanntan:20250215193203j:image大阪市立中大江小学校北側の歩道を下ると、松屋町筋に至る
f:id:higachanntan:20250215193252j:image松屋町筋(右の建物はマイドーム大阪)
f:id:higachanntan:20250215193222j:image↑同上(右の建物は大阪商工会議所)
f:id:higachanntan:20250215193226j:image大阪市立中大江小学校通用門

 

 昭和48(1973)年9月にヒガチャンは東淀川区(分区して淀川区になる)の中学校に常勤講師(国語科)で採用された。昭和54(1979)年3月まで在任した。

 国語科の同僚(昭和九年生まれ)のA先生から、筒井康隆と「特別教室」で同級であったと聞いた。しかし、多忙に紛れて詳しく伺う機会を失った。

 

 大阪市立中央図書館で借りた『評伝 筒井康隆』(八橋一郎著、新潮社刊、1985年)で記憶が50年ぶりに蘇った。小説家の筒井康隆大阪市立中大江小学校に転入学し、その「特別教室」に通級した記述が載っていた。「筒井康隆と同級生だった」A先生の話は事実だったのだ。

 「昭和21年6月に住まいのある吹田市千里山から大阪市立中大江小学校に転入学した。知能テストがあり、筒井はIQが178であった。彼も「特別教室」に通った。中大江小学校から約3〜4人の児童が選ばれた。」(『評伝 筒井康隆』から引用)

    『評伝 筒井康隆』の43頁に「市の教育部長の発案」で「英才教育を施そう」としたと書いてある。筒井康隆自身の記述ではないが、「筒井康隆全集」の月報に八橋一郎氏の書き下ろしを加えた作品とある。

 中大江小学校校長(昭和21年当時)が堀勝で、父の筒井嘉隆(天王寺動物園長で大阪市教育委員)が知人の堀校長に頼み、越境入学の手続きを取ったと『評伝 筒井康隆』(39頁)に書かれている。

 なお、昭和22(1947)年3月、大阪市立東中学校創設準備のため、堀勝校長が任命された。4月から大阪市立東第一中学校が発足する。堀校長は昭和26(1951)年3月に退職した。(大阪市立東中学校創立40周年記念誌『ひむがし』昭和62(1987)年発行を参考にした)

 

   大阪市立中央図書館の3階大阪コーナーで次の資料に当たった。

①『大阪市中大江小学校創立八十八年記念誌』、『大阪市立中大江小学校百年誌』に「特別教室」の記述がない。

②『国文学』(学燈社刊、1981年8月号)の「筒井康隆年譜」の昭和21年に「中大江小学校に転校。知能テストの結果、IQ187とわかり特別教室に入れられる」と書かれている。

③『筒井康隆読本』(創現社刊、1991年)の年表に1946(昭和21)年に「大阪市内の中大江小学校に越境転校し、熱心に勉強し成績優秀となる。知能テストの結果、IQ178とわかり特別教室に入れられる」と書かれている。また、翌年「特別教室の生徒全員と共に、大阪市立東第一中学校に入学」したとある。

④『精神と光彩の画家 中村貞夫」(大阪大学出版会刊、2018年)に橋爪節也氏が「デカルトに魅せられた画家ー大阪モダニズムと中村貞夫ー」を書かれて、文中に筒井康隆に触れている。中村貞夫は「昭和九年(1934)、本田(ほんでん)小学校に在籍しながら、戦後、大阪市が英才教育のため設立した中大江小学校(現・中央区)の特別教室に通学する。(中略)作家の筒井康隆が同級であった。筒井らと大阪市立東中学校に進学し」たとある。

 

 大阪市立中大江小学校に「天才児」のための「特別教室」が存在したことが複数の文献からわかった。これからの関心は、一次史料(決済文書など)が存在するかである。

f:id:higachanntan:20250215195037j:image大阪市立中央図書館(木村蒹葭堂邸跡の碑)
f:id:higachanntan:20250215195033j:image↑同上
f:id:higachanntan:20250215195043j:image↑同上

 『大阪市会会議録』を大阪市立中央図書館は昭和ニ年〜昭和十九年まで所蔵する。しかし、昭和二十年と昭和二十一年は欠本で、府立中之島図書館も同様である。大阪市会図書室だけが全て所蔵している。未見である。

 

 戦後大阪市の教育史の詳細な記録『大阪市戦後教育行政資料』(大阪市教育研究所編集・発行、1978年)と『戦後大阪市教育史』Ⅰ〜Ⅳ(大阪市教育センター教育研究室編、1985〜88年)を見ても、特別教室に関する記述がない。

 『大阪市教育関係書類』(大阪市教務部学務課作成、大阪市立中央図書館蔵)や『朝日新聞』『毎日新聞』の昭和21(1946)年の記事にも記述がない。

 

 大阪市役所一階の総務局情報公開室に赴いて、大阪市長大阪市教育委員会に「決済文書の情報公開」を求めた。中大江小学校に「特別教室」の文書類を探してもらったが、存在しないという回答であった。大阪市教育委員会事務局教務部教職員人事担当からA先生の職歴が情報提供された。

 生年月日の記入はなかった。氏名・職歴と摘要のみであった。

  A先生も高齢であり、連絡先も不明なため、聞き取りができない状況である。

 

 大阪市公文書館に聴く。「昭和二十一(1946)年の大阪市行政文書を所蔵しているが、決済文書が簿冊になっているので、探すのに時間がかかる」と。

f:id:higachanntan:20250214224748j:image大阪市公文書館
f:id:higachanntan:20250214224739j:image↑同上
f:id:higachanntan:20250214224752j:image↑同上

 

 大阪市史編纂所調査員の平良氏の見解を付す。「大阪市の教育事業として公式に実施されたものでなく、実験的に水面下で行われた可能性がある」と。

 

 敗戦直後、食糧事情が悪い政治的空白期に「天才児」を集めて、英才教育をする手法は、アナクロニズムの謗りを免れない。新日本建設を「天才児」たちに託そうとした大阪市役所教育部長の発案を笑うこともできる。

 敗戦ショックでにっちもさっちもうつ手のない行政が演じた、「天才児」に頼ろうとした悲喜劇と思われる。