ルーツは天理教にもあった

 そのきっかけは天理大学附属天理図書館で請求したコピーからであった。天理大学附属天理図書館所蔵の『天理教河北分教会史–百年の道–』(以降は『百年の道』と呼ぶ)であった。

 父方の親戚は大阪府内に住んでいるので、ルーツの探索は容易であった。

 しかし、母方の親戚は一人を除いて関東地方に住んでいるので、困難を極めた。戸籍謄本などを頼りにして、加古川史学会の岡田功氏(郷土史家)の協力で家系図を完成させた。そして、このほど『百年の道』によって詳細な記述をすることができた。

 

 下の写真は移転前の加古川市加古川図書館だが、母方の祖父のオオニシ善次の出生地は、兵庫県神崎郡豊富村豊富。明治三十六(1903)年2月に豊富村(現・姫路市)に生まれた。彼の長兄は松次郎、善次は次男になる。明治二十一(1888)年2月に山陽鉄道(現・山陽本線)が開通し、加古川駅が篠原村に設置された。

 戸主でない次男の善次は十代で故郷を出て、加古川町(ちょう)に居住していた可能性が高い。兄の松次郎が本町(まち)に住んでいたからだ。日本毛織加古川工場の起工式は明治三十一(1898)年2月に行われた。大企業が進出したため、労働力人口が農村地域から移動したと思われる。善次は従業員で働いていたかもしれない。彼は手が器用な人間で、大工仕事もできるので重宝されたであろう。

f:id:higachanntan:20241215221728j:image加古川市加古川図書館(図書館は加古川駅前に移転)は、旧加古川町(ちょう)公会堂である
f:id:higachanntan:20241215221723j:image三島由紀夫が徴兵検査を受けた(松の木の下あたり)
f:id:higachanntan:20241215221718j:image加古川市役所旧庁舎(今はない)
f:id:higachanntan:20241215221738j:image↑同上

 その後、大阪に出た善次はハシモトイソと世帯を持つ。イソは大阪府中河内郡北江村大字鴻池(現・東大阪市鴻池の三菱UFJ銀行鴻池新田支店の北側)で明治三十七(1904)年2月に出生した。イソは、ハシモト武治郎・テル夫妻の長女として生まれる。

 大正十一(1922)年6月、母・善子が祖父母のオオニシ善次・イソとの間に大阪市北区樋ノ口下之町(現在の北区樋ノ口町)で生まれる。祖母が大阪市北区に住んでいたのを後年に知るが、天満駅前にあった天満座でお芝居を観たと聞いたことがある。なぜ天満の地理に詳しいのかと首をひねったものだ。

 大正12(1923)年9月1日に関東大震災が起きる。復興のため、仕事があることで大阪を家族三人で東京へ向かう。警視庁が消失して、大工の仕事にありつけたと祖母から聞いたことがある。

 

 母方の曽祖父母のハシモト武治郎・テル夫妻は天理教信者であった。武治郎は布教に熱心で、天理教に財を貢いだと母から聞いている。そのため、家族の貧困は目を覆うほどであった。

 ハシモト武治郎は、大阪府北河内郡住道(すみのどう)村大字灰塚に、明治十六(1883)年4月、父ハシモト要助、母さよの次男として生まれた。明治三十(1897)年3月まで北河内郡讃良高等小学校で修学した。明治三十四(1901)年5月、同村のオクムラ弥十郎の三女てると結婚する。明治三十五(1902)年10月に入信した。明治四十四(1911)年10月、寝屋川宣教所(のちの寝屋川分教会)を設置して、分教会長に29歳で就任した。その後、武治郎は昭和18(1943)年に分教会の職を長男の與三郎に譲った。武治郎は還暦であった。

 昭和18(1943)年1月、ハシモト武治郎(寝屋川分教会長)が天理教高安大教会より河北分教会長に任命された。5月、天理教本部により許可を得て河北分教会三代会長に60歳で就任した。

 しかし、太平洋戦争中であり、「教勢は全く振るわず、経済的にもどん底の時代」(百年の道)であった。敗戦後の昭和22(1947)年11月になって「三代会長就任奉告祭」を開く始末であった。

 昭和23(1948)年11月、「授訓者大会」を開いて布教意欲の奮起を確認しあった。

 昭和25(1950)年1月、高安大教会六代会長が亡くなる前の遺言によって、神殿の移転建築に取り掛かった。大阪府中河内郡縄手村大字河内(現在の東大阪市昭和町)の土地を買収した。200名以上の人が「もっこを担い、手押車、牛車、オートバイ、トラック」で参加した。昭和25(1950)年7月、天理教本部から移転建築の許可が出た。そして、神殿、炊事場、客室の建築が進んだ。昭和26(1951)年1月に鎮座祭を挙行した。増築を昭和28(1953)年5月に行った。

 昭和27(1952)年12月に宗教法人法による宗教法人天理教河北分教会が設立された。昭和30(1955)年5月、「親里ひのきしん」のため、「近鉄瓢箪山駅より電車四両を貸切って、七百余名」が参加した。

 

 曽祖父武治郎は昭和38(1963)年9月24日夕方に80歳で亡くなった。当日も変わりなく過ごしていた。突然眠るが如くであったという。ヒガチャンが中学二年生の時であった。

 高安大教会では、立教百年祭準備実行委員(昭和11年)、高安大教会役員(昭和19年)、高安修養科生指導係(昭和22年)を勤めた。

 大阪教区では、大阪教区地方委員(昭和14年)、天理教一宇会大阪河内支部常議員(昭和16年)を勤める。

天理教本部詰員(昭和24年〜34年まで)を10年間勤めた。

f:id:higachanntan:20250103173021j:image天理教河北分教会
f:id:higachanntan:20250103173036j:image↑同上
f:id:higachanntan:20250103173031j:image↑同上

 私にとって記憶に残る曽祖父は、偶に瓢箪山からやってくる優しいおじいさんであった。母を「善子、元気か?」と家に入ってきた。珈琲が好きで、「砂糖を入れたら、スプーンをゆっくり掻き回すねんで」とヒガチャンに言ったりした。明治生まれなのに、ハイカラな好みを持つおじいさんだと思った。

 天理教に入信を勧められた両親は無宗教だからと断っていた。その母も後年、倫理研究所朝起会に熱心に活動した。晩年はそこからも離れた。ヒガチャンは天理教信者ではないが、「天理王命」「ひのきしん」などの言葉が残っている。

 天理教の戦前・戦中について興味があり、文献を読んでいる。

【参考文献】

天理教河北分教会史–百年の道–』(天理大学附属天理図書館蔵)

三島由紀夫』(岩波新書)