森小路バス停で下車した。旭郵便局前の方がわかりやすいのだが。柳通りを西に歩く。旭税務署を過ぎ、旭区役所で資料などをいただく。ランチを北向かいにある「イスタンブール」でいただく。
かつて民主書店で有名な「風の本屋」の店長だった池田節夫さん(2013年、100歳で没)は月に一回、ある新聞に折り込み広告を入れていた。B4判のチラシ。両面印刷で、彼の書評が載っていた。よく勉強されていたとご遺族から聞いた。私の知らない本の書評を読んで、世界観が広がったものだ。絵本の在庫が多いのが売りだ。書店が町からなくなっていく中で貴重な存在だ。
↑森小路の「風の本屋」(店内は15坪の広さ)
↑「風の本屋」の店内(窪島誠一郎さんと池田節夫さん)
↑店内
↑店内(元店主の故・池田節夫さん)
↑店内
↑同上
↑元店主の故・池田節夫さん(青いシャツがお気に入り)
↑「風の本屋」の隣の道は、京阪電車の元線路
↑京阪電車の元線路を北に歩く
↑同上
↑同上(行き止まり)
京阪電車の元線路を辿った。大阪市立古市小学校が建っているので、まわり道をする。京街道を歩く。
↑京街道
↑同上
↑大阪市立古市小学校が見える
京街道に面して東洋学園専修学校がある。ランドマークの一つ。その北隣に角屋がある。いつも列ができる有名店だ。
↑東洋学園高等専修学校
↑角屋
↑大阪市立古市小学校が向こうに見える
↑レトロな建物
↑京阪電車の線路跡
↑千林商店街発祥の地
↑千林駅前あじな商店街入口
↑同上(マップ)
↑同上
↑迷路に入ったような感覚になる
↑九軒長屋
↑同上
↑同上
↑同上
↑同上
↑同上
九軒長屋は昭和12(1937)年に、国産のヒノキと高級銅板、三河の瓦とタイルなど、当時の粋を集めて建てられた。「旭区ブランド」に指定されている。(マップ『昔懐かしい佇まいタイムスリップの旅コース』大阪市旭区役所総合企画担当発行、平成23年3月)
九軒長屋は今は五軒しかなかった。令和3年に市民から情報提供(九軒長屋でなくなった)がなされていた。令和3年以前になくなっていたことがわかっている。また、清水3丁目にあった六軒長屋を探したが、昭和初期に建てられたものはなかった。旭清水郵便局員に訊いたが、長屋はないと証言した。たぶんマンションになったか、新しい建売り住宅になったと思われる。
さて、城東区鴫野東3丁目の長屋と鴫野西1丁目寝屋川堤の長屋を見ていただこう。
↑鴫野東3丁目の長屋
↑同上
大阪環状線京橋駅から鴫野橋を南へ渡る。城東区鴫野西1丁目寝屋川堤を東に歩く。100年近い長屋が残っている。昭和10(1935)年以前に建ったらしい。外壁が重厚なタイル張りで、妻側に防火壁(うだつ)がある。表から見ると二階建てだが、内部は三階建てになっている。堤(土手)ののり面に建っており、二階が入口になっているためだ。
朝日橋通りを南に歩く。鴫野西の長屋を見ていくが、最近は京橋駅に近いからか、長屋が新しい建物に変わっている。
↑蔦のからまる建物(鴫野橋南詰)
↑萬倍地蔵尊
↑同上
↑二階建ての長屋(内部は三階建て)
↑同上
朝日橋南詰で右折して、朝日橋通りを南に歩く。通りの東側には鐘淵紡績(鐘紡)の広大な工場があった。京橋南コーポの場所にかつて女子寮があった。女子寮の周りには高い塀が取り囲んでいた。太平洋戦争末期の空襲で大阪砲兵工廠や鐘紡は壊滅した。戦後に鐘紡は移転した。
↑旧鐘紡女子寮の塀(ブロック塀はマンション建設時に改修された)
↑同上
↑朝日橋通りの爆撃を免れた長屋
↑旧鐘紡女子寮の塀(出入口はマンションができてからできた)
↑旧鐘紡女子寮の基礎(レンガ)が残る
↑朝日橋通りの長屋
寝屋川を北に渡ると、京橋駅が近い。1945(昭和20)年8月14日の午後、京橋大空襲で数百人の乗客が犠牲になった。そのご遺体が周辺に積み上げられて、焼かれた。鐘紡女子寮の周辺に今も住む80代の女性の戦争体験を聴く。犬が何かを咥えていた。人間の骨だ。どこから咥えてきたのか。骨を取ろうとすると、唸り声を上げた。おとなしい犬なのに。父親が脅かして、咥えるのをやめさせた。人の骨を咥えて、犬は本能に目覚めたのだ。たぶん寝屋川の北側から咥えてきたのだろう。
長屋を探し求めて歩いてきた。戦災にあわなかった地域に残る大阪の長屋建築。戦争の記憶をどう後世に伝えていけるか。
【参考文献】