大阪市城東区放出西1丁目に戦後まであった「女子歯科医学専門学校」の文献調査を行っている。戦後まで校舎があったのは地図を見て特定できている。大阪法務局(本局)で購入した和紙公図でもぼんやりと浮かんできている。井路は青に塗られている。図にはないが、北には東から西に寝屋川が流れている。北西に極楽橋が欄外に架かっている。和紙公図の年代は不明である。
↑放出町の和紙公図(大阪法務局本局で入手)。青色の部分は井路と思われる。北の欄外には寝屋川が東から西に流れている
昭和14(1939)年発行の『最新旭区地図』(和楽路屋)を見れば、大阪市旭区放出町603番地に「女子歯科医学校」の表記がある。
昭和29(1954)年発行の『大阪市区分詳細図(城東区)』(和楽路屋)によると、大阪市城東区放出町603〜608番地に「女子歯科医専校」の表記がある。昭和29年まで学校が存在したとは断定できない。地図情報が地図になるには時間的経過が必要だからだ。
令和5(2023)年発行の『ゼンリン住宅地図(城東区)』では、当該の箇所(城東区放出西1丁目4-22)には個人の住宅、駐車場、溶接工作所がある。
10月28日にまず「女子歯科医学専門学校」の跡地がどうなっているのかを歩いてみた。
寝屋川に架かる極楽橋から出発した。極楽橋南詰の交差点から歩いた。近くには皆様石鹸の工場跡(今はある教団の宗教施設)の裏の細い道を辿る。この道はたぶん井路であっただろう。城東区放出西1丁目から東に続いている。
↑放出西1丁目
↑極楽橋(奥に今福小学校が見える)
↑井路の跡
↑旋盤工場から金属を削る音となつかしい臭いが漂っている
↑同上
↑右も左も地盤が高い
↑井路の跡は広くなった
↑放出西1丁目の掲示板
↑右側は高くなっている
↑突き当たりに「三叉路」という名の喫茶店。入口は南にあり、市バスの道に面している
↑想定浸水深3m
↑石綿スレートをかつて作っていた会社
井路の南側を見ると、民家が並んでいる。長屋だ。平屋の民家で、東成郡の長屋の特徴を有している。市バスの道が高くなっている。
↑東成郡独特の平屋の長屋
↑同上
↑電柱に「シギヘン」と書いてある。近くに関電送配電株式会社新喜島変電所がある
↑井路跡から東を見る。左に建つマンションは中島製作所の工場跡
↑溶接工作所
溶接工作所から平野川分水路(城東運河)までが「女子歯科医学専門学校」があった辺りだ。今は「大阪市立今福小学校・放出小学校第二運動場」がある。昭和25(1950)年から5年をかけた城東運河の開削により、「女子歯科医学専門学校」の校地が大きく削られた可能性がある。そうすると、学校の閉校が昭和25年にまで遡れることになる。
↑今福・放出小の第二運動場
↑同上
↑同上
↑同上
今福小学校の生徒数が少なく、単学級なので、大阪市は条例で放出小学校(かつての分校)への統廃合を5〜6年後に決めている。しかし、今福地区では戸建ての建設ラッシュが続く。今年4月の新入生は10名と聞く。今福小学校が一次避難所であり、今福南地域がマンション建設に適さない土地でもあることを考慮すれば、大阪市の対応には疑問が残る。
↑平野川分水路(城東運河)の北側を見る
↑同上(南側を見る)
↑今福・放出小学校第二運動場
↑放出新橋から西を見る
↑放出新橋から南を見る
↑平野川分水路から西を見る
↑放出橋
↑寝屋川北岸の古堤橋と城北運河(城北川)の樋門
↑寝屋川に架かる歩道橋(今福小学校を卒業したら、歩道橋で放出中学校に通う)
↑寝屋川の北岸が見える
↑大阪市立放出小学校
↑大阪市建設局城東抽水所(下水を集めて、下水処理場に送る)
↑同上(放出小学校は今年創立50周年を迎える)
旧中島製作所株式会社放出工場(大阪市旭区放出町620番地)跡地に建つマンション名は、ファミールハイツ城東である。中島製作所は大正八(1919)年1月に創業した。銑鉄鋳物を扱っていた。
↑ファミールハイツ城東5周年記念の碑
↑同上
↑マンションは災害避難ビルになっている
また出発地に戻ってきた。極楽橋のいわれについては、城東区の皇大神宮のHPに詳細に書かれているので、ご参考にされたい。
↑極楽橋
↑改修年月が記されている。平成4(1992)年8月なのか。
↑極楽橋
↑同上(野崎まいり)
↑極楽橋南詰の交差点
↑信楽焼のたぬきが並ぶ新喜多東2丁目の住宅
鯰江第一小学校、旭区役所出張所、今福警察署、極楽橋郵便局などの行政機関が集中していた極楽橋周辺。今は寂れたが、かつての記憶を求めて歩いた。ナゾの女子歯科医学専門学校の追究はつづく。
【参考文献】
日本歯科大学新潟生命歯学部「医の博物館」のHPを2024年10月29日に参照(女子歯科医学専門学校の「学則」(大正15年3月発行)が陳列されている。