松下精工今福工場

 眼科で視野検査(両眼)を受けた。結果は来月の受診でわかる。

 病院の無料バスまで時間があるので、歩いて帰ることにした。城北運河(今は城北川)を渡る。今福北橋から見る景色は懐かしい。新光製糖が砂糖の原料をハシケで今も運搬しているのだ。寝屋川を遡上して、古堤橋の樋門を抜けたハシケが工場横の城北運河に停泊している。

f:id:higachanntan:20240925205720j:image↑城北運河のハシケ
f:id:higachanntan:20240925205705j:image↑城北運河(かなたにNTTの電波塔が見える)
f:id:higachanntan:20240925205716j:image↑今福北橋

 運河を西に渡れば、城東区今福西6丁目になる。そこには松下精工株式会社今福工場があった。『風と空気をつくる-松下精工30年のあゆみ』(昭和61年7月発行)を見ると、「大阪府東成郡鯰江町大字今福307番地(現在の大阪市城東区今福西6丁目2番61号)‥松下精工株式会社の現在地であり、大正4年9月のことである。今福にあったので今福工場と呼ばれた」とある。面積が6000坪とある。松下精工の前身は、川北榮夫が創業した「株式会社川北電気企業社」で、扇風機・積算電力計・鉱内用ヘッドランプなどを作っていた。

f:id:higachanntan:20241002165143j:image↑今福工場
f:id:higachanntan:20241002165139j:image↑放出工場(大阪府東成郡榎本村大字放出642番地。1919年竣工、1928年閉鎖)

 松下精工の跡地はマンションに変わっている。その中に松下精工株式会社今福工場ここにありを記念する説明板がある。
f:id:higachanntan:20240925205709j:image↑扇風機発祥の地の説明板
f:id:higachanntan:20240925205701j:image↑広い敷地
f:id:higachanntan:20240925205723j:image↑せせらぎが流れる
f:id:higachanntan:20240925205712j:image↑広い敷地のマンション
f:id:higachanntan:20240925205653j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240925205657j:image↑イヌのおしっこはダメですよ
f:id:higachanntan:20240925205649j:image↑松下精工株式会社今福工場の跡地

 

 川北榮夫という人物に惹かれる。詳細は『川北榮夫の生涯』(川北榮夫伝記刊行会発行)を参照されたい。城東区にはかつて大工場が存在した。従業員は職住近接で、工場の近くに住んだ。蒲生が大阪砲兵工廠の工員たちによってできた街であるように、今福も工員たちの住まいでもあった。大阪市も公設市場や市民館、保育所を作っていく。庶民の町が形作られていく。

 詩人で映画評論家だった杉山平一(1914〜2012)は、その著『わが敗走』(1989年、編集工房ノア刊)で、父が1922年に川北電気企業社の工場長として転勤してきた今福工場のことを書いている。工場の社宅から寝屋川まで歩き、巡航船で天満橋まで乗る。そこから大阪市立中大江東小学校(現:大阪市立中大江小学校)まで通っていた。1926(昭和元)年、小学校5年修了で大阪府立北野中学校(現:大阪府立北野高校)に飛び級入学。1928(昭和3)年に東京に転居し、私立麻布中学校3年に編入。1929(昭和4)年に再び北野中学校に戻る。1931(昭和6)年に17歳で卒業する。大阪での生活は約9年間に及んでいる。人生で多感な青春時代を彼は大阪で送っていたのだ。

【参考文献】

『風と空気をつくる–松下精工30年のあゆみ』(昭和61年7月発行、松下精工株式会社)の写真(今福工場と放出工場)の転載については、パナソニックエコシステムズ広報課の許可を得ています。