元同僚との久しぶりの食事会。生駒山を越えて、富雄の「百楽荘」に集まった。A師匠から推薦されていた所だ。さすがA師匠、お目が高い。
「平斎の日記」(https://heisai.hatenadiary.org/entry/2021/07/14/025354)2023.11.27
「料亭百楽荘」泉岡宗助(泉屋土地建物株式会社代表)が約8万坪の土地を昭和八(1933)年に購入。数寄屋造りの一戸建てを点在させた。設計は泉岡宗助が行い、建設当初は別荘として使用された。建築家の有名な村野藤吾が、建築に素人の泉岡が設計したと知ってたいへん驚いたという話を足代氏から聞いた。
昭和三十三(1958)年、合併により近鉄グループが「百楽荘」の土地建物を受け継いだ。現在の敷地は約一万坪。
↑百楽荘の入口
↑同上
↑すすきと線路
↑本館への道
↑元近鉄会長の自宅
↑長寿門
↑百楽荘のランチ(滋味野菜ランチ)
↑「鈴蘭」の間
↑紅葉がすばらしい
↑昭和十七(1942)年に竣工した「姫百合」の間
↑「なでしこ」の間
↑茅葺屋根の「さつき」の間
↑「千草」の間
↑同上
↑「鈴蘭」の間
↑紅葉
↑大広間の木々
↑庭
↑料亭百楽荘 物見巡り図
8万坪であったのが、今は1万坪になっている。おや、なんでや。残りの7万坪はどうなったの。昭和34(1954)年から富雄駅北側が開発された。私の推理では、住宅地として売却したのか。近鉄の儲けになったのか。高級住宅地として有名な富雄。その先鞭をつけたのが泉岡宗助であり、その後継者である近鉄なのか。
以上は私の独断である。読者諸賢のご批判をお待ちする。
【参考資料】
「料亭 百楽荘物見巡り図」(2023.11.27)
「平斎の日記」
『大阪商業大学商業史博物館資料集成 第1集』(平成24年3月)の「明治三十六年三月一日改 電話番号簿」によれば、泉岡宗助は木炭材木商となっている。住所は西区西道頓堀通二丁目五十三。