西成区役所まで地下鉄に乗って、岸里駅まで行った。すぐ上が西成区役所だった。障がいを持つ者にはありがたい。区役所で西成区観光マップをいただく。西成区社会福祉協議会にも寄って、フードバンクのチラシを置かせていただく。
せっかく西成区に来たのだから、郵便局のスタンプを集めよう。西成郵便局、千本南郵便局、住之江粉浜北郵便局と。16時までに入局しないと、通帳に局の印が押されない。足も痛いし、時間にも追われるのだ。
南下して旧西成郡の古民家を見たくなった。あちこち歩き回った。近寄って見れば、ベトナム料理店だった。
↑ベトナム料理の店
↑同上
↑メニュー
入って食べようとしたが、営業がすでに終わっていた。
しばらく行くと、前々からお参りしたかった生根神社の鳥居が見えたのだ。
↑生根神社の鳥居
↑同上
↑天神牛の立札
↑天神さんの牛
↑商店街から寄付された蛙(かえる)
↑アメノヌボコ立太子礼記念
↑南門
生根神社の創立年代は不明。この土地は元住吉大社の神領であった。住吉の生根神社の祭神少彦名命の分霊を受け、勝間(こつま)村の産土神として祭った。少彦名命の奉祀以前、有喜(うき)恵美須社として蛭児命(ひるこのみこと)を祭っていた。蛭児命は、福徳・商売繁盛・生業・漁業・農業の神である。
大昔、茅渟の海(大阪湾)に大津波が起き、西宮恵美須神社は社殿とともに流されて、神体は勝間浦に流れ着いた。村民はこの地に祭った。西宮神社の氏子がこれを聞き伝え、返還を要求した。神体を返されたが、勝間村の人々は分霊を求めた。それを祭ったのが神社創建の初めと言われている。
明治初年の廃藩置県の時、黒田藩の筑前屋敷に祀られていたのが筑紫天満宮(上の天神)であり、生根神社に遷された。しかし、昭和20年3月14日の大阪大空襲で社殿がすべて炎上する。ご神体はすでに住吉の生根神社に遷されていた。昭和41年10月鉄筋コンクリート造りの社殿等を復興した。
大阪大空襲でこの神社も大被害を受けていたのだ。改めて地域の中心の一つである神社の復興が果たされていたのに感動を覚える。
↑「だいがく」のミニチュア(神社の許可を得ている)
雨乞い神事に用いられた「だいがく」が保存されている。明治時代、玉出(勝間村)には6基あった。戦災で焼失した。今に残る1基は、当時の保管役の岡本宗治氏の岡山疎開によって難を逃れたものである。神社の夏祭り(7月24日、25日)に毎年公開されている。大阪府指定有形無形文化財民俗資料第1号の指定を受けている。
勝間村といえば、今東光の『こつまなんきん』を思い浮かべる方も多いだろう。勝間村では、江戸時代から南瓜が特産物であった。綿作と南瓜栽培が産業であった。今の玉出・岸里・千本地域で採れた南瓜を「こつま南瓜」と呼んでいた。形が小さく可愛らしくて、肉もよくしまり、美味しいと評判であった。冬至に食べる風習がある。コロナ禍で行事が途絶える虞があったが、今年の行事が待たれる。蒸した南瓜に小豆の餡をかけたものを食したいものだ。
生根神社から南に行くと、地下鉄玉出駅だ。四ツ橋線の駅だ。聞くと、四ツ橋線のホーム柵設置は全線の最後になるそうだ。2025年度末になるのだろうか。乗客の安全を守るためにも、早期の着工を望みたいものだ。
↑地下鉄玉出駅(ホーム柵未設置)
↑2025年に全駅設置だが‥
生根神社参拝という収穫があったのは、気まぐれまち歩きも満更悪くはないと思われる。生根神社の神主さん並びに禰宜の方のご協力の賜物である。
【追記】
2月17日に改めて玉出を歩いた。見逃しているのがあるのではと思ったからだ。
岸里から国道26号線を徒歩で玉出まで南下した。バスが走ってないのだ。沿線に興味を惹く建物などがあった。表通りを入ると迷路のようだが、味のある街並みが広がっている。ここも西成区だが、下町の情緒ある建物群が続いている。
↑地図
↑スーパー玉出の本社
↑カステラ屋
↑スーパー玉出の店
↑玉ニ商店街
↑露天の店頭(冷凍の目玉焼き)
↑玉出小学校創立150周年
↑玉出中ニ丁目の町並み
↑同上
【参考文献】