土佐稲荷神社の成立

 大阪市福島区妙寿寺で開催された「浦江塾」で田野登氏の講演を聴いた。西区の川とそこに住む人(宮本又次)を取り上げた魅力的な話題であった。又次は西区北堀江御池通り2丁目宮本又三・悦夫婦の養子として堀江で成長する。旧電気科学館から長堀川を写した一枚の写真から現地に行ってみたいと気もそぞろになってしまった。地下鉄西長堀駅周辺である。特に土佐稲荷神社のあたりだ。

f:id:higachanntan:20221126063538j:image田野登氏と同じアングルで撮影(奥の建物は大阪市西区役所)
f:id:higachanntan:20221126063554j:image玉垣
f:id:higachanntan:20221126063533j:image土佐稲荷神社の立て札
f:id:higachanntan:20221126063514j:image本殿
f:id:higachanntan:20221126063510j:image岩崎家旧邸趾

 

 土佐稲荷神社(大阪市西区北堀江四丁目九の七)に参った。神社で頂いた「由緒書」によれば、江戸時代、一帯は土佐藩邸であったが、明治になって「三菱」の創業者の岩崎弥太郎が引き継ぎ、自身もその一画に居を構えたとある。

 また、昭和十二年にその土地の一部が大阪市に譲渡され、神社東側に大阪市立西華女学校の新校舎が完成した。その後、校舎跡地は集合住宅になり、平成二十年に再開発計画がスタートしたと記述されている。

 

 田野登『水都大阪の民俗誌』には、神社は「三菱」の寄進による神社であると記述している。境内に「三菱金曜会」奉納の玉垣がある。「三菱グループが祀る神社で、グループ各社の事業所、工場に分霊が祀られている本家本元の神社、すなわち三菱稲荷の本社である」(宇野正人)

 賽銭箱に稲穂に囲まれて、中央に「三菱」の社紋が陽刻されている。正月に三菱商事のトップクラスが参拝するという。「三菱」寄進による神社なのである。

f:id:higachanntan:20221128081311j:image大阪市立堀江中学校(元大阪市立西高校)
f:id:higachanntan:20221128081320j:image土佐公園
f:id:higachanntan:20221128081315j:image同上

f:id:higachanntan:20221128081523j:image大阪市立中央図書館

 明治になって岩崎弥太郎土佐藩邸の土地をどのように引き継いだのか、その詳細がわからなかった。諸文献を渉猟した。やっと『西区史』第二巻(昭和54年)にたどり着いた。

 「鰹座橋南詰西角一円を占むる旧土佐藩蔵屋敷地に就きて、明治初年以降の推移を考察すれば、同屋敷地の名義人は、旧大阪三郷時代には同蔵屋敷の名代長岡屋久兵衛代々が継承していたが、明治四年蔵屋敷廃止後は高知屋半兵衛の有に移り、更に山中秀治郎名義に替りしものを、明治七年三月岩崎弥太郎が購入して後年の三菱会社を創業したる地である。而して同時代に於ては他例の売買価格より高額に購入しているに拘らず、当時の公簿とも称すべき水帳の面積三筆1600坪がわずかに2000円であって、かつその地上には土佐藩侯藩邸はじめ、大阪勤番者屋敷・倉庫等のたてものを有していたのである。その後同地は一部を東京倉庫(後の三菱倉庫)に、大部分を三菱大阪支店社宅として使用していたが、大正の末年社宅を取り除き空き地になっていたのを、昭和九年十二月十三日、大阪市立西華高等女学校敷地として西区(財産区)が買収したるものである。同地を西華女学校校地として譲渡するに際しては、三菱家は特別なる好意をもって、時価を無視したる価格金13万円にて、該地中の大部分である旧社宅の敷地実測1829坪4合を西区に分譲したが、なお倉庫及び事務所洋館等存在する北部に約400坪の地面を残しているのである。この事実にてらしても、明治初年頃までの市中の水帳及び同絵図に記載せられた面積は、いかに杜撰なるものなりしかをうかがうことができると共に、明治7、8年頃の売買価格においても、現在の実測せる坪数にて計算すれば、すこぶる大なる差異を生ずることが判明するのである」(『西区史』第二巻)。長く引用したが、読みやすいように、漢数字をアラビア数字に、漢字をひらがなに改変したことを断っておく。

 

 大阪地籍地図の西区土地台帳(明治44年)によれば、西区北堀江裏通2丁目1番地に三菱合資会社が877反66畝保有していた。また北堀江裏通2丁目2番地に岩崎久弥が2067反22畝を保有していた。三菱合資会社西長堀北通4丁目10番地に834反86畝を保有していた。

 

 『大阪府史蹟名勝天然記念物』第五冊(昭和6年)に「土佐稲荷」の記述がある。「往年土佐藩士の堺浦にて、仏人を殺りくし、ために妙国寺にて、屠腹(注:切腹)を命ぜらるるや、人員20人を限られしをもって、多数の藩士、本社に詣でて鬮(注:くじ)を取り、人員を定め、而して後、御殿に於いて徹夜痛飲、堺に赴きし」と記述する。

 『西区史』第三巻にも「郷社土佐稲荷神社」の記述がある。「明治維新の際には、泉州堺浦で暴行せる仏国水兵を殺傷せし故を以て勃発せる妙国寺事件に於て、屠腹と定まりし土佐藩士六番隊長箕浦猪之吉・八番隊長西村左平次以下20名の選定を、当社神前の神籖を引かしめて定めたという悲壮なる歴史を有する名高い社」である。

 ただし、土佐稲荷神社の社務所に一枚の貼り紙がある。堺事件についての問い合わせはお断りの紙が貼ってあるので念のために誌す。

 

 明治維新の頃の土地管理制度の「杜撰さ」を感じている。猪飼野探訪会の小野賢一氏に示唆をいただいた。旧鶴橋村の土地台帳に220ヘクタールあるのに、実態は180ヘクタールしかない。40ヘクタールの誤差がある。江戸時代の年貢、明治の地租改正、そして現在の固定資産税とかわっても、杜撰な土地管理制度は今も続いていると言えないだろうか。杜撰というのが言い過ぎならば、土地台帳と実態が違っても誤差を認めて裁量することができたと言えないだろうか。