お江戸は日本橋(にほんばし)、大坂は日本橋(にっぽんばし)と読む。大阪市浪速区の日本橋筋はかつて、電気街として有名だった。今はメイド喫茶などで賑わっている。紀州街道であった堺筋は江戸時代の公儀道であった。参勤交代で大名などが通る道であった。庶民は西側の住吉街道を通ることになる。住吉街道の名を知る若者はいない。「オタク通り」が定着している。
地図を確認して、出発
石井記念愛染院附属愛染橋病院
大阪市営日本橋住宅にある碑(秩父宮夫妻が来られたのか)
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大阪市営日本橋住宅
秩父宮の写真
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路地をたどると、日本橋商店会という異空間(失礼)があった。骨董品を扱うご主人に周辺の歴史を伺った。「歴史のことなら、毘沙門天崑崙山大乗坊の住持に聞くのが一番や」と言われ、そちらに向かうことにした。
日本橋小中一貫校 大阪市立日本橋中学校・大阪市立浪速小学校
校門
日本橋商店会
路地が人を吸引する
日本橋商店会の地図
五階百貨店の歴史
骨董品屋
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オタク通り(住吉街道)を北上する。旧日本専売公社大阪支店があった「タイムズ大阪難波駐車場」を右折してすぐの大乗坊に参拝する。もの知りの住持に教えていただいた。成瀬國晴の「なにわ難波のかやくめし』が今の愛読書だ。日本橋三丁目のものがたりが綴られている。必携本だ。
住吉街道(通称オタク通り)
タイムズ大阪難波駐車場(旧日本専売公社大阪支店)
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この辻を右折する
毘沙門天大乗坊
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境内にある1トン爆弾の一部
大乗坊門前
旧松坂屋百貨店(高島屋別館、高島屋資料館)が見える
【大乗院の住持からの聞き書き】
大乗院の住持から聞いたことを書いていく。
鴨なんばの由来。農民が汁かけめし(鴨、難波ネギ、鴨の出汁)を食べていた。難波が鴨なんばの発祥地。汁かけめしをそばやうどんに変えると、今の「鴨なんば」になった。伝統野菜の京都の九条ネギは難波ネギから開発された。難波ネギ(青ネギ)は周辺にあった油屋の油粕を肥料にして美味しかった。今のエコロジーを実践していた。油は紙に塗って防水性が出る。油紙や番傘として売れた。
長町(文楽の「夏祭浪花鑑」に出てくる)の長屋は、コの字型にできている。井戸と地蔵尊がある。夜になると、長屋の入り口を戸締りをする。江戸時代の治安は今よりも良かった。
大阪大空襲で辺り一面が焼け野原になった、松坂屋・鎌田特許・大阪日本橋キリスト教会・酒井精肉店日本橋店のみ残った。新今宮駅北側にあったクラブ化粧品の工場まで見えた。
毘沙門天大乗院の領地はかつて一里四方であった。船場・島之内の大店の信仰が篤かった。寄進もあった。大阪大空襲で堂宇は火災で全焼。本尊などは宝物殿にあったので現存。その他の資料は焼けてしまった。
旧松坂屋百貨店の威容はいつ見ても感動する。堺筋から見るだけでなく、御蔵跡筋からも見てみた。多角度から見て、建物の大きさが実感できた。
高島屋東別館・高島屋資料館
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高島屋資料館は休館日だった
旧松坂屋百貨店の建築説明板
高島屋東別館・高島屋資料館の東側
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旧大阪市立日本橋小学校の校地
高島屋東別館・高島屋資料館
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大阪市営日東住宅を見る。かつての面影は消えて、高層団地に建て替えられていた。そこには旧日東住宅の三階建の暖かさはあまり感じられなかった。威圧感だけが残った。
浪速日本橋郵便局
大阪市立日東小学校は閉校になっている
日東白龍大神
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大阪市立日東幼稚園。懐かしいと自転車に乗った子どもが駆け過ぎた
日東住宅内の地蔵さん
旧日東小学校の校地
通天閣が見える
大阪市営日東住宅
日東住宅内のお地蔵さん
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地図