深江稲荷神社の周辺に段蔵があると聞いて、深江を歩いてみたくなった。近世には深江村、明治22(1889)年には東成郡南新開荘村大字深江であった。大正5(1916)年に神路村となる。そして、大正14(1925)年に大阪市東成区に編入した。
今でも「人間国宝角谷一圭記念 深江郷土資料館」の周辺は村の佇まいが色濃く残っている。地域の歴史に誇りを抱いているのが町のあちこちに刻まれている。
地図を頭に入れて出発
地下鉄新深江駅を上がれば、コクヨ本社がある
同上
おもしろい看板
これもおもろいなあ
外科の野崎病院、有名です
個性ある長屋
深江南の地図
お地蔵さん
町会の掲示板
いざ深江南3丁目の深江稲荷神社と深江郷土資料館から見てまわった。
深江稲荷神社の社前に大阪府・市の史跡「摂津笠縫邑」「深江菅笠ゆかりの地」指定の石碑がある。
高市黒人が『万葉集』で深江の菅笠を詠っている
歌碑の説明板
大木の繁る神社の境内
日露戦役記念碑
隣の「深江郷土資料館」が開館していた。前には菅田があって、近くの小学生が体験学習で菅の刈り取りをするという。展示物が充実している。人間国宝の角谷一圭や角谷三兄弟の作品が陳列されている。伊勢神宮式年遷宮に御神宝の菅御笠・菅御翳(おさしは)を献納している。また、歴代天皇即位式の大嘗祭(一回目の新嘗祭)に深江の御菅蓋(ごかんがい)が調進される。
深江村の東を放出街道(中高野街道)が走り、摂津と河内の国境になっている。東西に暗越奈良街道が通っている。お伊勢参りの道中笠に深江編笠店(みせ)で買い求めた人も多かったであろう。
深江村の中を周る。大邸宅の北西部に段蔵が位置している。冬の季節風を防ぎ、洪水時の財産を守る役割があったのだろうか。深江もかつて低湿地であった。明治18(1885)年6月に大洪水に見舞われた。それ以来、大切な品を水害から守るための段蔵に納めたと書かれている。
参考文献:「大阪深江探訪」(深江創生プロジェクト、2018年)
「深江の菅笠と茶の湯釜」(山元啓三)
東大阪市高井田西一丁目の蔵
同上
東大阪市高井田西ニ丁目の蔵
同上(放出街道)
歴史が息づいている深江村。歴史を後世に伝えようとする意志が感じられる。
人間国宝角谷一圭邸
深江郷土資料館
菅田
明治十八年洪水酉歳記念碑(左) 大正3(1914)年2月10日建立
裏面
深江歴史災害伝承碑(右) 大正3(1914)年2月以降(推定)建立
上の神社の由来が書かれている
伊能忠敬観測隊も通った
その説明板
街並みも落ち着いている
放出街道(中高野街道)右側が大阪市、左側が東大阪市
深江稲荷神社への参道
参考文献:「展示解説パンフレット」(大阪市東成区役所市民協働課)