『城東古事記』という冊子を図書館で手にした。3冊あったので、借りてきた。『東成郡史』や『城東区史』にも載っていない記事が載っていた。
昭和44年12月に発行とある。1969年である。千里丘陵であった大阪万博の前年である。
これらの写真は、2021(令和2)年に撮影した。破壊前の岸田邸である。岸田邸は関目4丁目(今は成育5丁目)にあった。
次に『城東古事記』から抜粋する。
善福寺(成育地区)の東隣に岸田家がある。この邸は石垣でニ米は附近の土地より地上げしてあるが、明治十八年の水害では始めは床の上まで、水が来て、酒だるを伏せて、その上にすわっていた所が、水深がましてきて、階下全部浸水したそうである。京阪の関目駅の東に関目の墓があるが、こゝに立派な岸田家の霊碑がある。これを造ったのはある時、火事があって、附近の家に類焼を防ぐのに一生けんめいで、とても過去帳を出すひまがなかった。火事後、やっと出した過去帳より燃えない過去帳を造ろうと大理石の霊碑に没年と法名をきざんだと言う。霊碑にきざまれた一番古いのは寛文六年(一六六六年)である。岸田家はもっと古くから住んでおられるそうである。岸田家はこの村では分家を許さず、関目では本家一軒だけである。
岸田邸については、地元の松尾氏から情報をいただいた。
慶応4(1868)年までは岸田邸は年寄の田中文平の屋敷であった。その後に岸田家の所有になった。大阪法務局本局で旧土地台帳にあたる必要があると考える。
『関目村誌』を書かれた地元在住の田中茂氏からも「関目村で岸田家が豪農であったという記録や話はない」と昨年聞いた覚えがある。『城東古事記』の記述については慎重に追究を進めたい。
大阪画壇で活躍した女流画家の島成園は戦後しばらく、岸田邸の一室を借りて画業に励んだと言われている。戦後の彼女にとって、「大正時代の輝きは完全に過去のもの」となる。1970年(昭和45年)3月5日、宝塚市で78歳で亡くなる。(『女性画家の大阪–美人画と前衛の20世紀–』大阪市立近代美術館建設準備室発行、2008年)