クラブコスメチックス株式会社(大阪市西区西本町2-6-11)の1階の文化資料室で第18回企画展が開かれている。事前予約制で申し込んだ。私一人であった。写真撮影は一部を除き厳禁である。
「女性」展のポスター
クラブコスメチックス(元中山太陽堂)は創業20周年を記念して、中山文化研究所を大正12(1923)年1月に創立した。上の写真は堂島ビルディング5階の婦人談話室の写真である。
「女性」展は5月31日まで開催中。日祝日は休館。大阪メトロ地下鉄中央線阿波座駅①番出口すぐ。
眼科に通院するために地下鉄今里駅から暗越奈良街道を歩いた。
東成消防署横の道標
奈良街道
道標
同上
同上
同上
同上
同上
道標の横のビル工事で足場を組んでいた。足場で道標が見えなくなることはないと工事関係者が言った。
今里小学校の校門を通過して、北上した。
天理教の教会
興味が湧く建物
今里小学校の校門
お地蔵さんに願掛けをした
いまざと診療所
居場所「まねきねこ」
八王子神社の御旅所はすぐにわかった。大きな楠が見えるからだ。
楠が見えた
旧住居表示だが、修正した跡がある。
現在の住居表示
御旅所の楠
夏になると、涼みに行こうかな
旧八剱神社
保存樹。くすのき2本とある
明治十八年の洪水で楠はたくさんの命を救った
私が子どもだったら、登っていただろう
忠魂碑。日露戦役の30年後なら1935(昭和10)年か
お江戸は日本橋(にほんばし)、大坂は日本橋(にっぽんばし)と読む。大阪市浪速区の日本橋筋はかつて、電気街として有名だった。今はメイド喫茶などで賑わっている。紀州街道であった堺筋は江戸時代の公儀道であった。参勤交代で大名などが通る道であった。庶民は西側の住吉街道を通ることになる。住吉街道の名を知る若者はいない。「オタク通り」が定着している。
地図を確認して、出発
石井記念愛染院附属愛染橋病院
大阪市営日本橋住宅にある碑(秩父宮夫妻が来られたのか)
同上
同上
大阪市営日本橋住宅
秩父宮の写真
同上
同上
路地をたどると、日本橋商店会という異空間(失礼)があった。骨董品を扱うご主人に周辺の歴史を伺った。「歴史のことなら、毘沙門天崑崙山大乗坊の住持に聞くのが一番や」と言われ、そちらに向かうことにした。
日本橋小中一貫校 大阪市立日本橋中学校・大阪市立浪速小学校
校門
日本橋商店会
路地が人を吸引する
日本橋商店会の地図
五階百貨店の歴史
骨董品屋
同上
同上
同上
同上
同上
同上
オタク通り(住吉街道)を北上する。旧日本専売公社大阪支店があった「タイムズ大阪難波駐車場」を右折してすぐの大乗坊に参拝する。もの知りの住持に教えていただいた。成瀬國晴の「なにわ難波のかやくめし』が今の愛読書だ。日本橋三丁目のものがたりが綴られている。必携本だ。
住吉街道(通称オタク通り)
タイムズ大阪難波駐車場(旧日本専売公社大阪支店)
同上
この辻を右折する
毘沙門天大乗坊
同上
同上
同上
同上
境内にある1トン爆弾の一部
大乗坊門前
旧松坂屋百貨店(高島屋別館、高島屋資料館)が見える
【大乗院の住持からの聞き書き】
大乗院の住持から聞いたことを書いていく。
鴨なんばの由来。農民が汁かけめし(鴨、難波ネギ、鴨の出汁)を食べていた。難波が鴨なんばの発祥地。汁かけめしをそばやうどんに変えると、今の「鴨なんば」になった。伝統野菜の京都の九条ネギは難波ネギから開発された。難波ネギ(青ネギ)は周辺にあった油屋の油粕を肥料にして美味しかった。今のエコロジーを実践していた。油は紙に塗って防水性が出る。油紙や番傘として売れた。
長町(文楽の「夏祭浪花鑑」に出てくる)の長屋は、コの字型にできている。井戸と地蔵尊がある。夜になると、長屋の入り口を戸締りをする。江戸時代の治安は今よりも良かった。
大阪大空襲で辺り一面が焼け野原になった、松坂屋・鎌田特許・大阪日本橋キリスト教会・酒井精肉店日本橋店のみ残った。新今宮駅北側にあったクラブ化粧品の工場まで見えた。
毘沙門天大乗院の領地はかつて一里四方であった。船場・島之内の大店の信仰が篤かった。寄進もあった。大阪大空襲で堂宇は火災で全焼。本尊などは宝物殿にあったので現存。その他の資料は焼けてしまった。
旧松坂屋百貨店の威容はいつ見ても感動する。堺筋から見るだけでなく、御蔵跡筋からも見てみた。多角度から見て、建物の大きさが実感できた。
高島屋東別館・高島屋資料館
同上
同上
高島屋資料館は休館日だった
旧松坂屋百貨店の建築説明板
高島屋東別館・高島屋資料館の東側
同上
同上
旧大阪市立日本橋小学校の校地
高島屋東別館・高島屋資料館
同上
大阪市営日東住宅を見る。かつての面影は消えて、高層団地に建て替えられていた。そこには旧日東住宅の三階建の暖かさはあまり感じられなかった。威圧感だけが残った。
浪速日本橋郵便局
大阪市立日東小学校は閉校になっている
日東白龍大神
同上
大阪市立日東幼稚園。懐かしいと自転車に乗った子どもが駆け過ぎた
日東住宅内の地蔵さん
旧日東小学校の校地
通天閣が見える
大阪市営日東住宅
日東住宅内のお地蔵さん
同上
地図
深江稲荷神社の周辺に段蔵があると聞いて、深江を歩いてみたくなった。近世には深江村、明治22(1889)年には東成郡南新開荘村大字深江であった。大正5(1916)年に神路村となる。そして、大正14(1925)年に大阪市東成区に編入した。
今でも「人間国宝角谷一圭記念 深江郷土資料館」の周辺は村の佇まいが色濃く残っている。地域の歴史に誇りを抱いているのが町のあちこちに刻まれている。
地図を頭に入れて出発
地下鉄新深江駅を上がれば、コクヨ本社がある
同上
おもしろい看板
これもおもろいなあ
外科の野崎病院、有名です
個性ある長屋
深江南の地図
お地蔵さん
町会の掲示板
いざ深江南3丁目の深江稲荷神社と深江郷土資料館から見てまわった。
深江稲荷神社の社前に大阪府・市の史跡「摂津笠縫邑」「深江菅笠ゆかりの地」指定の石碑がある。
高市黒人が『万葉集』で深江の菅笠を詠っている
歌碑の説明板
大木の繁る神社の境内
日露戦役記念碑
隣の「深江郷土資料館」が開館していた。前には菅田があって、近くの小学生が体験学習で菅の刈り取りをするという。展示物が充実している。人間国宝の角谷一圭や角谷三兄弟の作品が陳列されている。伊勢神宮式年遷宮に御神宝の菅御笠・菅御翳(おさしは)を献納している。また、歴代天皇即位式の大嘗祭(一回目の新嘗祭)に深江の御菅蓋(ごかんがい)が調進される。
深江村の東を放出街道(中高野街道)が走り、摂津と河内の国境になっている。東西に暗越奈良街道が通っている。お伊勢参りの道中笠に深江編笠店(みせ)で買い求めた人も多かったであろう。
深江村の中を周る。大邸宅の北西部に段蔵が位置している。冬の季節風を防ぎ、洪水時の財産を守る役割があったのだろうか。深江もかつて低湿地であった。明治18(1885)年6月に大洪水に見舞われた。それ以来、大切な品を水害から守るための段蔵に納めたと書かれている。
参考文献:「大阪深江探訪」(深江創生プロジェクト、2018年)
「深江の菅笠と茶の湯釜」(山元啓三)
東大阪市高井田西一丁目の蔵
同上
東大阪市高井田西ニ丁目の蔵
同上(放出街道)
歴史が息づいている深江村。歴史を後世に伝えようとする意志が感じられる。
人間国宝角谷一圭邸
深江郷土資料館
菅田
明治十八年洪水酉歳記念碑(左) 大正3(1914)年2月10日建立
裏面
深江歴史災害伝承碑(右) 大正3(1914)年2月以降(推定)建立
上の神社の由来が書かれている
伊能忠敬観測隊も通った
その説明板
街並みも落ち着いている
放出街道(中高野街道)右側が大阪市、左側が東大阪市
深江稲荷神社への参道
参考文献:「展示解説パンフレット」(大阪市東成区役所市民協働課)
城東区出身の有名人と来たら、大阪市立菫中学校出身の西田佐知子ではないだろうか。「アカシアの雨がやむとき」などのヒット曲で有名だ。1939(昭和14)年に大阪市城東区で生まれた。1960(昭和35)年の吉田地図を見ると、野江に西田という家が複数あった。
京阪電車の野江駅
おおさか東線の野江駅
長屋街
おおさか東線野江口
おおさか東線を見る
レンガ道とおおさか東線が交わる
城東野江郵便局
春日井製菓大阪支店
夜店通り(旧京阪電車の軌道)と交差
野江の古老(Kさん)のお出ましを願った。1939(昭和14)年生まれで菫中学校まで自転車通学が許されていたらしい。地域の物知りの方。今でも西区まで自動車で行かれる御仁である。商売もご盛業と聞く。
関西電力野江変電所の近くは長屋街が広がる。最近はマンションも建っている。かつては西田姓の家が多かったらしい。その中でKさんは地図(2020年のゼンリンの住宅地図)を指差した。もちろん住居の主人は変わっていた。
野江の街並み
同上
突き当たりに榎並地蔵がある
手前が旧榎並川
榎並川を渡ると、京街道に交わる。榎並川を南に行くと、桜小橋の交差点になる。主要地方道大阪環状線から国道1号線に向かう抜け道になっている。都市計画道路豊里矢田線(疎開道路)が全通していない状態はあと15年かかるかもしれない。
榎並地蔵
榎並地蔵の北の街並み
京街道の地図
榎並地蔵のいわれ
京街道の石碑
京街道
京街道が商店街のアーケードに
真実の口
野江墓地から榎並川を渡る。渡れば京街道に。榎並地蔵を通過して、京橋中央商店街のアーケードを通る。国道1号線と京街道が交わるところに「真実の口」がある。真実の口の文案は、商店街の理事長が考えるらしい。時事的なもので評判が高い。読者諸賢は注意を向けられよ。
【参考文献】
中村泰士(作曲家)がかつてABCラジオに番組(日曜日の午前中)を持っていた。そこで西田佐知子との思い出を語っていた。白いスポーツカーに乗った彼女が家の前に止まって、遊びに誘われた思い出を披露した。彼女の売れっ子時代を彷彿とさせる。彼女の青春時代の一コマを知られる貴重な証言だ。
谷町四丁目駅から本町通りを下っていく。ホテルやマンションがにょきにょきと建っている。坂の途中に「浪曲親友協会」の事務所にある。そこに顔を出す。中田萬夫元事務局長(死去)の思い出話をする。元国鉄労働者だったとは知らなんだ。また顔を出すと約束して辞去する。
東横堀川に架かる本町橋は、市内にある現役の橋で最古の橋だそうだ。『本町橋いま・むかし』(本町橋100年会発行)によると、109年の歴史を刻んでいる。大正二年生まれだ。地域から愛されている橋と思える。高校の同級生が住んでいる。並びが東警察署とゼー六、向かいが産業創造館(元東区役所)という、交通の要衝に住んでいる。珍しいのがあると言われて、教えられたのが『本町橋いま・むかし』なのだ。
『本町橋いま・むかし』の在庫があるかと聞けば、大阪商工会議所のスタッフがすぐに対応してくれた。在庫はまだありますよと言ってくれた。目的のないまち歩きだけに、犬も歩けば棒にあたるだ。
農人橋
本町橋のまがり
同上
農人橋を渡り、生国魂神社の御旅所でお祈りをする。松屋町筋を北上する。
生国魂神社の御旅所の境内
裏から境内に入る
御旅所
御旅所
石碑
御旅所の表示
本町通の西を見る
内本町2丁目の交差点
宇野薬局は大阪市有形登録文化財に指定されている
同上
大阪商工会議所で本町橋のパンフレットをいただく。3人の銅像が松屋町筋を通るクルマや人を見つめている。彼らの眼に令和の大阪はどう映っているのだろうか。
土居通夫
五代友厚
稲畑勝太郎
土居通夫
稲畑勝太郎
銅像について
英照皇太后・昭憲皇太后行啓の所
大阪府立貿易館跡・大阪府立貿易専門学校発祥の地
同上
明治天皇聖燭
西町奉行所跡
説明板
大手前の東町奉行所と並んで、江戸時代に司法・行政を担った西町奉行所が本町橋のたもとにあった。のちの大阪刑務所・大阪拘置所の発祥地の一つだ。
松屋町筋を北上して、釣鐘町に向かった。
中央区の地図
大阪活版所跡
釣鐘屋敷跡。1634(寛永11)年に大坂町中時報鐘として設置さる。高さ:1.9m、直径:1.1m、重さ:3トン
同上
同上
坐摩(いかすり)神社の元宮・行宮は改修中。この辺りが渡辺津であった。
坐摩神社の元宮・行宮
現在は更地になっている。
八軒屋まですぐ近くだ。熊野街道の出発点になる。
熊野街道の説明板
急坂だ。右のマンションにはかつて料亭があった
船着場の雁木が残っている
かつて天満橋駅から農人橋まで通学していたヒガチャンには、このコースは青春のほろにがい思い出が詰まっている。旅人たちが歩いた熊野街道を私も歩いていたのか。