父は兵隊に行けなかった

 亡くなった父は兵隊に行かなかった。なぜか。それを聴く機会は何度もあった。躊躇う気持ちが先に立った。97歳で亡くなり、一心寺の骨仏になる。

f:id:higachanntan:20240418220420j:image城東区新喜多2丁目の街並み
f:id:higachanntan:20240418220406j:image↑同上(戦災を受けなかったため、築百年以上の建物が残っている)
f:id:higachanntan:20240418220402j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240418220416j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240418220412j:image↑同上

 鴫野駅近くの整形外科で院長に聴いた。父は障害者手帳を持っていて、院長が書類を書いたからだ。父は小児まひで、左足は多少びっこを引いていた。歩く時に少しおかしいと思っていたのに、聞こうとしなかった。小児まひは先天性か後天性かと尋ねると、後天性だと教えてくれた。小児まひのため、戦争に行かずに済んだのだ。そして、戦後に私は生まれたのだ。

f:id:higachanntan:20240418220946j:image若狭高浜の海岸は遠浅だ
f:id:higachanntan:20240418220942j:image↑弟と一緒に写る
f:id:higachanntan:20240418220936j:image↑叔父夫婦と若狭高浜の民宿に宿泊した

 軍隊に不要な人間だったのだ。障害者は戦争に向かないのだ。戦中は軍需工場で働き、戦後は城東区の岡村鉄工所で旋盤工として働く。サラリーマンだった。労働組合にも参加していたらしい。私が労働組合運動に参加していることを父に報告した。ポツリと言った。「気をつけろよ。組織は個人を振り回すぞ。」と。労働組合運動で彼は組織に騙された経験があったからか。

【写真提供】

若狭高浜の写真は、従兄弟の東野弘明氏と東野徹氏から提供されました。感謝します。

 

改正障害者差別解消法が4月から施行

 改正障害者差別解消法が2024(令和6)年4月1日から施行された。改正法で事業者の「合理的配慮」の提供が努力義務から法的義務に変えられた。義務化によって罰則が科されるものでない。実効性の確保は、主務大臣等による権限行使などによって図られることになる。

f:id:higachanntan:20240417220723j:image↑本文と関係がありません
f:id:higachanntan:20240417220659j:image↑同上(城東区蒲生四丁目の路地)
f:id:higachanntan:20240417220728j:image↑同上(天六のアルション)
f:id:higachanntan:20240417220654j:image↑同上(アルションの店内)
f:id:higachanntan:20240417220709j:image↑同上(映画館ホクテンザがあった)
f:id:higachanntan:20240417220705j:image↑同上(加納総合病院)

 「合理的配慮」とは何か?
 障害者に健常者と実質的に同じ権利を保障するために、適切な調整や変更を行うこと。視覚障害者が試験を受けられるよう、点字の試験試験用紙を用意することなど。(『大辞林 第四版』三省堂)

f:id:higachanntan:20240418115458p:image↑大阪メトロへの要望メール

  「障害者」と書く場合、障がい者とか障碍者と書いたりする場合もある。私は敢えて「障害者」と書く。障害に立ち向かうためにそう書くのだ。読者諸賢のご理解の程お願いしたい。

【参考資料】

『民生委員・児童委員のひろば』(2024年4月号)「特集 改正障害者差別解消法と障がいのある方への支援のポイントを学ぼう」

吉原治良の美術館(グタイ・ピナコテカ)

 抽象画家で実業家の吉原治良は、1905(明治三十八)年一月一日生、1972(昭和四十七)年二月十日に没した。

 大阪市東区大川町(現:中央区淀屋橋南詰付近)の油問屋の御曹司として生まれる。北野中学校(現在の府立北野高校)在学中に油絵をはじめる。関西学院高等商業を卒業する。御堂筋の拡幅で1928(昭和三)年に北区中之島三丁目(旧:北区宗是町)に移る。

f:id:higachanntan:20221005210334j:image中之島から堂島大橋を見る(橋梁に被爆の跡がかつては残っていた)
f:id:higachanntan:20221005210317j:image↑堂島大橋の説明板
f:id:higachanntan:20221005210330j:image↑堂島大橋の竣工日
f:id:higachanntan:20221005210343j:image↑堂島大橋南詰から福島区を見る(なくなった大阪メリヤス会館が写っている)
f:id:higachanntan:20221005210351j:image↑グタイ・ピナコテカの説明板は北区中之島三丁目の三井ガーデンホテルプレミアムの1階にある
f:id:higachanntan:20221005210300j:image↑グタイ・ピナコテカの説明板
f:id:higachanntan:20221005210304j:image↑ホテルから東方を見る
f:id:higachanntan:20221005210346j:image↑三井ガーデンホテルプレミアムの1階
f:id:higachanntan:20221005210325j:image↑ホテルの庭の道標
f:id:higachanntan:20221005210313j:image↑同上
f:id:higachanntan:20221005210308j:image↑昼下がりに寛ぐサラリーマンたち(右側のビルは関西電力本店)

 

【写真掲載については三井ガーデンホテルプレミアムの許可を得ております】

【参考文献】大阪市北区役所のHPを閲覧した(2022.10.9)

                      『生誕100年記念 吉原治良展』(朝日新聞社)

豊崎東会館よ、いつまでも

 堺筋線の天神橋六丁目(天六)から北東へ行くと、大阪市立北霊園が見えてくる。道を挟んで向かいに豊崎東会館と旧大淀寮がある。今は大阪市福祉局が管理している。

 この豊崎東会館(大正15年に完成した鉄筋コンクリート製)が更地になると『広報紙わがまち北区』4月号に載っている。「大正のモダン建築」と見出しにある。

f:id:higachanntan:20240412061705j:image豊崎東会館

 大阪市福祉局の保護課施設グループの係長に聞く。同一敷地内の旧大淀寮と解体される予定だ。解体業者との契約も済んでいる。豊崎東地域活動協議会が反対運動をしたのにかかわらず、大阪市福祉局はどのような対応をしてきたのだろう。「大阪の福祉の変遷を伝える歴史的な建造物だった。こういう建物があったことを子どもたちに語り継いでいきたい」と語る豊崎東地域活動協議会長のことばが大阪市の当局者にはどう響いているのか。

f:id:higachanntan:20240412061817j:image↑旧大淀寮

 旧大淀寮の前身は長柄共同宿泊所で、大正15年11月に創立された。住所は大阪市東淀川区長柄中1丁目にあった。(『大阪市営社会事業一覧』1929年5月)

  旧大淀寮は東館と西館が古い。大正15年完成と思われる。真ん中の建物は比較的新しいのではと思う。
f:id:higachanntan:20240412061821j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240412061813j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240412061800j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240412061805j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240412061809j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240412061826j:image↑同上

 「暖簾に腕押し」「馬の耳に念仏」「長いものに巻かれろ」「人の噂も七十五日」「泣く子と地頭には勝てない」ことばを連ねても、怒りは鎮まらない。

 パブリック(公共)の大阪市が文化行政に理解が少ないのは今に始まらない。志賀志那人が活躍で有名な北市民館の解体、名建築だった旧大阪市役所の解体、旧砲兵工廠本館の解体といくらでも列挙できる。最近の大阪市の文化行政には目を覆うばかりだ。

 大阪市中央公会堂のケースは参考になる。反対運動から大阪市民の寄付を集める行動に移る。大阪市に耐震補強をして保存に踏み切らせた。今でいうクラウドファンディングか。

 土地への愛着(大阪愛)はあるか。単なる建造物でなく歴史的建造物と見る認識の高さが大阪市にあろうか。また大阪市に都市格があろうか。

f:id:higachanntan:20240412065105j:image↑豊東祭

 「豊崎東会館と元大淀寮の跡地の一角には新たな地域集会施設が建設され」ると書いてある。解体して更地にするのだ。あとは入札をして、不動産業者を選定する。マンション建設が行われるだろう。同じ轍を踏むことになろう。一旦消えた建造物は元に戻らない。歴史の継続性を断ち切ってはならないのだ。

f:id:higachanntan:20240412064333j:image大阪市北斎

 元長柄墓地は広大であった。関西大学天六校舎もかつての長柄墓地の跡に建った。今はマンションになっている。
f:id:higachanntan:20240412065059j:image関西大学天六キャンパス跡地記念碑
f:id:higachanntan:20240412065112j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240412065041j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240412065121j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240412065108j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240412065054j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240412065027j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240412065032j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240412065045j:image↑同上
 一旦消えた建造物は元に戻らない。歴史の継続性を断ち切ってはならないのだ。

【追記】

大阪市北区役所に「豊崎東会館」と「旧大淀寮」の内部写真の提供を申請したが、断りのメールが来た。それを見て、読者諸賢のご参考にしていただきたい。

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桜咲く國

 口をついて出てくるのはOSK(大阪松竹歌劇団)の歌だ。物価上昇、年金カット、裏金疑惑、紅麹と世相は暗い。岸田首相は訪米して、日米同盟をさらに強固なものにすると記者会見で述べた。

 元職場の同僚たちとランチを共にした。堂島川の川面を見ながらの食事は会話も弾んで、食欲も進んだ。

f:id:higachanntan:20240408230318j:image↑八軒家浜(天満橋)

f:id:higachanntan:20240408230521j:image城東区新喜多東1丁目の遊歩道
f:id:higachanntan:20240408230529j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240408230525j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240408230517j:image↑同上

f:id:higachanntan:20240408230854j:image↑旧楠根川遊歩道
f:id:higachanntan:20240408230851j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240408230858j:image↑同上
f:id:higachanntan:20240408230847j:image↑同上

 旧楠根川(大和川の支流)が埋め立てられて、遊歩道になった。一重の桜が散っても、八重の桜が遅れて咲く。

 その遊歩道も水が流れなくなって、ポンプも壊れた。流れない川は無用の長物だ。今は埋められて、危なくない。保育園(元鯰江公設市場)がそばにあり、送迎に危険があるとの声に押されて、最近一部が埋められた。残りは関係する町会の判断に拠る。ボランティアで毎日ブラシで磨いていたIさんの姿が現れる。

 楠根川は子どもの頃、ドブ川だった。喜沢橋から潮の引いた川底には油がこびりついていた。そこに「がたろ」が金属を探していた。橋の上からそれをのぞいていた。ネズミ取りを奨励されていて、ネズミ取り器に入った鼠を川の中に沈める。死んだかなと思って引き上げる。生きている。ひもを結んだネズミ取り器をもう一度沈める。

 楠根川はない。喜沢橋もない。市場は「こども本の森」の倉庫になっている。ガタロもいなくなった。昔の懐かしい光景が瞬間あらわれ、60年前の父母の顔が浮かんでくる。

退院しました

 3月下旬から今日まで約1週間の入院だった。結石を内視鏡で除去する手術である。腰から下は麻酔で痛みはなかった。行きは手術室まで歩く。帰りはベッドに横たわってまま病室に戻る。導尿バックがベッドにぶら下がっている。点滴に繋がれてもいる。二日間はその状態であった。

 

 泌尿器科の先生のおかげで、血尿も治った。

 同室者にも恵まれ、快適な入院生活だった。

f:id:higachanntan:20240405142515j:image↑病室からの眺め
f:id:higachanntan:20240405142511j:image↑病室からの眺め(南を見る)
f:id:higachanntan:20240405142519j:image↑病室からの眺め(風呂屋が見える)

  バスと地下鉄を乗り継いで、わが家に戻ってきた。さくらも咲いていた。

f:id:higachanntan:20240405211546j:image↑蔵のある蕎麦屋

f:id:higachanntan:20240407180850j:image↑同上(張り紙に注意)
f:id:higachanntan:20240405211549j:image↑同上(5月に閉店するらしい)
f:id:higachanntan:20240405211539j:image↑あるお宅の桜
f:id:higachanntan:20240405211543j:image↑公園の桜

大阪メトロの改札口

 大阪メトロの改札口にある、行先表示板が変わったのに気づかれた方はどれほどいられるだろうか。ホームにあるのと改札口の行先表示板は同じであった。しかし、改札口のが右半分に大阪メトロの広告が占めている。そのため、時刻表示が小さく右下に追いやられている。

f:id:higachanntan:20240408113138j:image淀屋橋駅の行先表示板

 電話で大阪メトロに要望を上げていた。要望は聞くが、できないの一言。

 メールで再度、要望を上げた。

f:id:higachanntan:20240405141330j:image↑大阪メトロへのメール

 この要望への回答が楽しみだ。このブログにアップすることになろう。